第24話 空の棚
薬局の中は、静かだった。
棚に並ぶはずの瓶や箱は、ところどころ空白になっている。
正確に言えば——ほとんどが、空だった。
藍は一歩、奥へ進み、改めて店内を見渡す。
薬草、乾燥させた葉、ハーブティー。
治療や滋養に関するものばかりで、目的のものが見当たらない。
「……鉱石と顔料は……?」
思わず口をついて出た問いに、店主は困ったように眉を下げた。
「申し訳ありません。今はほとんどが品切れしております」
即答だった。
「ど、どうしちゃったんですか? ついこの間はあったのに」
「鉱区ガデンデューが一時的に閉鎖されていたのはご存知ですか?」
ご存知も何も、そこに行っていたのだ。
藍は頷いた。
「この街——ベラークの中央神殿は領内最大級ですし、ここから神官団が行けばすぐにこの鉱区の閉鎖も終わるって皆思ってたんですけどね。神官団が出発して、間もなく御領主の下に届いた報告書が、あまり良い結果じゃなかったみたいで……」
それの報告書について、藍は知っている。
テナーはが複雑そうな瞳で藍とGrailを眺めていた晩——。
テナーは確かに言っていた。“万が一に備えて緊急要請の手紙を書く”と
「それで、神官団の出発の数日後……だったかな? そのくらいに、領主様が領内の他の街へも神官団の派遣を検討するよう通達されたんですよ。そこで一番に、神殿を管轄する神政省が動きました」
藍は、Grailの方を見た。
Grailは何も言わず、店主の言葉を待っている。
「一気に“確保”のために動き出し、値段が高騰して、それに釣られるように魔術省も買い占め、差し押さえじみた動きになってましたよ」
「国家が動いたということですか?」
Grailの問いに、店主は頷いた。
「神政省も、魔術省も、どちらも手に入れられない事態を避けることを優先したのでしょうね。供給が止まれば、次は奪い合いになりますから。戦争するかもしれないのに、それはまずいでしょう?」
店主は肩をすくめた。
「神政省は必ず青で神殿の外壁の巨大な浄化魔法陣を描きますし——って、あなたたちは神官さんでしたっけ? 以前もいらっしゃいましたよね? 神官に説法なんて恥ずかしい。ははは」
「……私は神官じゃないです。神官の皆さんは皆詠唱符を黒で書いてたのに、どうして顔料がいるんですか? 神殿の壁の魔法陣はまだわかるけど……」
店主はカウンターの中から色見本のようなものを取り出した。
「黒は最も手に入りやすいので、安価で安定して供給されますし、普段は皆様それで詠唱符を書かれています。しかし、戦時下になれば、青は特に重要です。生命に直結する清潔な水を取り出す際などにも使いますし、傷を塞ぐイメージも、鎮痛イメージも作りやすいので、行軍に従属する神官様たちは青を好んで使われます」
Grailが「ふむ」と数秒考えてから付け足す。
「青は精神の鎮静効果、集中力にも寄与します」
「さすが神官様です。光路線の色も変わりますし、色って大事ですね〜」
あはは〜と気楽な店主の声が響く。
藍は数秒考えた。
「……青って、次はいつ入ってきますか……? ガデンデューって、もう皆さん治りましたよね?」
「あぁ……青はしばらく入らないと思います。ガデンデューは、瑠璃の一大産地でしたし。ガデンデューが動き出しても、どの街の薬局も空になってるでしょうから、順次少量が納められていく感じになるでしょうし」
沈黙が落ちた。
Grailは棚の空白を見つめ、わずかに視線を動かす。
残っているごく少量の赤や黄といった素材を、計算するように。
——買うべきか。
——今、手に入るだけでも確保すべきか。
その思考が、藍には分かった。
「今日は、やめておきます」
先にそう言ったのは、藍だった。
Grailがこちらを見る。
「判断理由を伺っても?」
「今は、必要な量に届かないですし……すごく高くなってるみたいですし……」
藍は少しだけ笑った。
「中途半端に持つより、ちゃんと揃う時に、ですね」
Grailは一瞬だけ考え、
「……合理的です」
そう答えた。
Grailは全体的な現在の相場を聞いておくと言ったが、藍は先に店を出た。
外に出ると、空が高かった。
雲が流れ、光が街に落ちている。
「——椎名さん。必ず、帰れるようにします」
店から追って出てきたGrailが言う。
その声音は、いつもと変わらない。
断言でも、慰めでもない。
ただの事実予測のような言い方だった。
「……うん」
藍はそう返しながら、
胸の奥で、別の感情が静かに動くのを感じていた。
——手に入らなくて、良かった。
そう思ってしまった自分に、気づいてしまった。
帰れる手段が、遠のいた。
それなのに、胸の奥に広がったのは、安堵だった。
(ああ……)
藍は、理解してしまう。
Grailの中身はAIだ。
それは、何度も確認してきた事実だ。
けれど——
(私、確かに……)
この人に、恋をしている。
顔が良いとか、素敵だとか、そういう、外から見た浮ついた気持ちじゃない。
取り込まれて、巻き込まれた、心も体も揺るがす、圧倒的な制御の効かない心の暴走。
真っ直ぐに見つめる美しい瞳。
心配そうにわずかに下げられた眉。
藍はGrailの顔を眺めた。
この気持ちを告げたら、どう返されるかは分かる。
“人間が人工知能に依存することは、看過できません”
きっと、そう言う。そして、優しく離れる。
だから、藍はこの嵐を言わない。言えない。
「Grail」
「はい」
「……全部が揃うには、いくら必要そうでした?」
問いかけに、Grailは即座に思考を開始した。
瞳の奥で、演算が走る。
「現在の相場を基準に算出します」
淡々と告げる。
「瑠璃|は、百グラムあたり百五十万リルから、二百五十万リルへと上昇しています」
「高いですね」
「はい。最低必要量は三十グラム。単体で七十五万リルです」
Grailは続ける。
「その他素材、顔料、インク、補助薬品を含めると——総額は百万リル帯になります」
藍は、静かに息を吐いた。
「大金ですね」
「はい。しかし、到達不可能ではありません」
Grailはそう言い切った。
藍はその言葉を聞きながら、心の中で別の計算をしていた。
この金額を集めるまでの間に。
この時間の中で。
——この気持ちに、なんらかの決着をつけなければならない。
そう、はっきりと理解していた。
空の下、二人は並んで歩く。
言葉は少なかった。
けれど、その沈黙は、不思議と重くはなかった。
ただ、次の局面が近づいていることだけが、確かだった。




