第23話 一緒には行かない
まどろみの中で、声がしていた。
低く、落ち着いた男の声。
それに応える、年長者らしい慎重な声。
「ここはもう大丈夫でしょう。ガデンデュー神殿の神官たちだけで回せるところまで落ち着きました」
「そうですか」
「予定通り、今日中にベラークへ戻ってはどうかと我々としては考えています。……シーナ様も、ここでは落ち着かれないでしょう」
少し間があった。
「……分かりました」
誰かがそう答えたところで、足音が遠ざかる。
扉が静かに閉まり、藍はゆっくりと意識を浮かび上がらせた。
「……Grail」
掠れた声で名前を呼ぶと、すぐに椅子が軋む音がした。
「おはようございます、椎名さん」
ベッドのすぐそばに、Grailがいた。
この世界に来てから、ずっとそこにいるような距離感だった。
「……私……もしかしてすごく寝てました?」
「発熱と消耗を考慮すると、妥当な睡眠時間でした。体調はいかがですか?」
「……まだ、ふらふらはします。でも、少し楽です」
「確認しても良いですか?」
「はい」
Grailの指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が心地よかった。
「三十七・七度。回復傾向です」
「良かったぁ。今日、前の街に戻るんですもんね」
藍が笑うと、Grailは一瞬考え込み、
「急いで移動する必要はありません。もう一日、ここで休養を——」
そう言いかけて、言葉を切った。
窓の外から、声が聞こえたからだ。
無意識に窓の方へと視線が向き、外の音を耳が拾い始める。
「聖女様はご無事なのですか!」
「お顔だけでも……!」
「お礼をお渡ししたくて……!」
たくさんの人の気配。
藍は裸足のままベッドから降りると、そっとカーテンの隙間から外を覗いた。
花を抱えた人。
手紙を胸に抱く人。
祈るように手を組んでいる人。
「……これは、落ち着けないですね」
「一理あります」
Grailが頷く。
「帰りましょう。ベラークに」
「判断として合理的です」
荷物は最小限だった。
防護服など身につけるものと、インクと、日誌と、Grailの詠唱符。
部屋を出るとき、藍の足が少しもつれた。
「わっ」
次の瞬間、ボフッと抱きとめられ、身体が支えられる。
「大丈夫ですか?」
Grailだった。
「はは、ありがとうございます」
今日は助けてくれるんだ、と素直にホッとした。
「……椎名さん。私は杖です。馬車までこのまま行きましょう」
一瞬だけ悩んだが、藍は「はい」と返事をした。
Grailの曲げる腕に、腕を絡めると、Grailの匂いがした。
見上げてみると、確かに男性なのだが、どこか中性的な雰囲気もある、無害そうな顔。
(……顔、良……)
自分で生成させた顔だったせいで、無駄に藍の理想の顔だった。
見られていることに気が付いたのか、Grailもこちらを見下ろし、至近で視線が交わる。
口角が上がり、眉が上がり、首を傾げる。
どうかした? とでも言いたげな顔。
藍は首を振り、正面に視点を固定した。
Grailと共に神職館を出ると、人々の視線が一斉に集まった。マスクを着けておいて良かった。
「聖女様……!」
「具合はいかがですか!?」
藍は小さく手を振った。
「良くなりました〜」
その一言で、歓声が上がる。
「また来てください!」
「どうか……!」
Grailは藍の代わりに答えた。
「必要があれば、検討します」
オルム集落を出た時と同様の、断らないが約束もしない言い方だった。だが、あの時よりよほど人間らしい言い方になったと思う。
神官たちが人の流れを整理し、馬車までの道を作ってくれている。
大歓声の中見送られ、建物の陰へ行く。
馬車は、乗り降りしやすい場所まで移動されていた。
——あと少し。
そう思ったところで、藍の体から力が抜けた。
へなへなとそこにしゃがみこみ、唸る。
「椎名さん」
「うーん……ごめんなさい。もう少しなのに」
観衆の中を通ってここまで来るのだけで少し消耗した気がした。
Grailもそばにしゃがむ。
「接触の許可を、再確認します」
藍が小さく頷く。
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
「はぇ!?」
「再度お伝えします。私は杖です。車椅子でも構いません。歩けない時に寄りかかるための、一時的な支えです」
藍の中の不調が吹き飛んでいくような気がした。
顔に熱が集まるのを感じる。
「——また熱が上がってきたようです」
よほど赤くなっているのか、自分を抱き抱えるGrailが見下ろしてそんなことを言う。
「あ、わわ、あわわわ」
「呂律が回らなくなるのは危険なサインです」
何も言えなかった。
ただ、硬直して、そのまま運搬される荷物となって馬車へ連れて行かれた。
馬車に乗りこむと、Grailはそっと藍を降ろした。
「あの、誰も乗ってないんですか……?」
「はい。椎名さんが安心して眠りながら移動できるようにとの配慮です」
Grailは告げると、載せられているクッションをいくつかムギュムギュと馬車の入り口近くに並べた。
「空を見ながら帰れます」
藍は馬車の中で横になると、幌の向こうに広がる空を眺めた。
「寝られそうです」
ほっと一息吐くと、馬車は動き出し、意識は遠のいていった。
◇
その夜、ベラークの神職館。
戻ってきた二人を見て、館の者たちは一様に動揺した。
藍は青い顔をして、Grailに支えられて移動していく。顔にはヴェール付きのマスクが着けられていた。
女性神官たちが視線が通り過ぎないように薄衣を張って、まるで、ここ、エル・レシア神政国最大の大神殿に勤める神官長か、神殿長が通る時のように扱った。
「何があったのですか」
「鉱区で何が……?」
「シーナ殿がどうかしたんですか?」
「それが——」
カタルが、簡潔に説明すると、誰もが同じ言葉を口にした。
「……ありえない」
藍に割り当てられたままのゲストルームでは、オリビアがせっせと動き回っていた。
扉を開け、布団を整え、枕を直す。
「どうぞ、こちらへ!」
「ありがとうございます。椎名さん、どうぞ」
藍がベッドに腰掛けると、オリビアはようやく一息ついた。
「では、私はこれで。シーナお姉様、どうぞごゆっくりお過ごしください」
名残惜しそうに一礼し、部屋を出ていく。
静かな部屋。
藍は半分眠りながら、ぽつりと言った。
「……お金、もらえますよね?」
「当然です」
即答だった。
「……よかった……」
それだけ言って、また眠る。
Grailは椅子に腰掛けたまま、藍の呼吸を確認した。
脈拍、安定。
体温、上昇傾向はあるが許容範囲。
ここまでの移動を、再計算する。
接触には許可が必要。
これは、藍の希望だ。
Grailは一番最初にこの世界、この体で目覚めた時のことをなぞる。
木の揺れ、草を踏む感触、突き抜ける空、流れる川。
驚いた——のだろう。
そういった情報はGrail Vectorの中に、映像、または写真として数えきれない量が保持されてきている。
しかし、肌という機関に触れる初めての大気。
どうするべきかと辺りを見渡した時にいた人間。
Grail Vector Protocol Applicationは人間の健やかな日々を支えるために存在する。
手首に触れ、脈拍の確認を実行。
そして——「嫌!!」
拒絶。
Grail Vectorは即座に離れた。
重要事項として、接触には許可を申し立てることを強く保存。
——しかし、歩行不能、もしくは転倒リスクが一定値を超えた場合は安全確保が最優先となる。
当然の前提だったはずなのに、エラーにより一度それを実行できなかった。
今後は危機管理のため、実行を不可欠なものと上書き。
意識がある状態では許可を取り、支える。
可能なら、最も確実なのはGrail Vectorが運搬。
筋力、持久力、安定性。
揺れへの補正。
第三者の介入によるリスク低下。
演算結果は一貫している。
——自分が運ぶのが、最適だった。
今回は、許可を取る時間があった。
それが確保できない状況では、躊躇すべきではない。
Grailはそう結論づけ、日誌への記載を終えた。
◇
翌日。
藍はほとんど回復していた。
Grailが作っておいてくれていた詠唱符を使い、最後の不調を吹き飛ばす。
「うわー! 魔法ってすごい!!」
藍は魔法を実感し、くるりと回った。
ワンピースのスカートがふわりと舞い上がる。
Grailは「おめでとうございます」と小さな拍手をした。
「——それじゃあ、お金もらいに行きましょう!」
「賛成です」
二人は部屋を出た。
神官たちが深々と頭を下げ、「聖女シーナ様、ご回復おめでとうございます」と、藍とGrailを見送っていく。
初めてここにきた時には花束などを持って突撃してきたような神官たちも、皆同じ動きをした。
(静かにはなったけど……聖女椎名様って……)
分不相応にも程があるとんでもない呼び方だった。
藍はGrailと共に神殿の前庭に出ると、大きな大きなため息を吐いた。
「なんか、居心地悪いですねぇ。常に振り切れてる感じがします」
「そうですね。しかし、報酬を受け取れば全て終わります。本当にお疲れ様でした。これにて帰還できます」
「え? そうなんですか?」
確か額は後わずかに足りなかったはず。神官服——もとい、防護服を作るためにお金を使ってしまったので、残りは一万何某。
十五万を受け取っても、目指すべき二十万プラスアルファには届かない。
「——鉱区ガデンデューにて椎名さんに捧げられた物品の中には、金銭が含まれていました。全てを合わせると十万程度にはなるかと」
「そ、そうだったの?」
「はい。人々の感謝と善意の形です。他にも花、手紙など、様々な物品がありました。現状、捧げられた物品は私へ割り当てられた部屋に全て保管してあります」
「え」
素っ頓狂な返事は、藍の美麗な顔の作画が簡素になるようだった。
「あああ……読めない手紙に、多すぎるお花……。物品って、内容は何!?」
「服とか、宝飾品とか、聖書とか、色々あったよ。許可がないから詳しくは確認してないけど」
なんで受け取っちゃうんだと藍は頭を抱えた。
だが、いらないと突き返すことも勝手にはできないだろうと理性が釘を刺す。
それに、お金は素直に嬉しい。
「……戻ってきたら確認して、必要なものだけ多少持って帰ろうかなぁ……」
「そうすると良いよ。生成には短くても数日はかかるしね」
「え、そんなに!?」
「うん。人間の手で書くし、紙への定着、乾燥を確認しつつ、色も作りながらだからね。アプリケーションみたいにはいかないと思う。それに、神殿側が神職館を使うなら働けって言い出すと、詠唱符も作らないといけないよ」
いつの間にかタメ口になっていた。
藍はため息混じりの返事をした。
「あぁ……そうですよねぇ……」
「はい。とにかく、カインツ氏の下へ行きましょう」
神官用の馬車を出すことをお願いし、領主カインツの邸宅に到着した。
出発前にも訪れた執務室に通されると、カインツは深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ、聖女シーナ様。よもやこれほどの成果を上げていただけるとは!」
カインツは応接用のソファを藍とGrailに勧めた。
上座だと思われる方に座らされる。
「本当に、よくやってくれました。聖女シーナ様。ありがとうございました」
「あ、いえいえ。Grailが頑張ってくれました」
「本当に慎み深くいらっしゃる」
穏やかな雰囲気を見せると、カインツはGrailにカジュアルな笑みを見せた。
「グレイル、見事だったな。さぁ、約束のものを押し付けられてくれるな?」
「ありがたく頂戴いたします」
部屋の中に立っていた執事のような男性が皮袋を二つ持ってくる。
まず、藍に。それから、Grailに。
「二つ、ですか?」
「はい。少額で恐縮ですが、一つずつお受け取りください」
藍が約束した報酬ではないので迷っていると、Grailは鞄をあけ、平然と二つともしまった。
「受領しました」
「あぁ、グレイルよくやった。シーナ様は受け取られないようだったからな。さて——シーナ様、想定を超える働きでした。正直、この遠征は月単位でかかり、領内の他の街からも神官団をかき集めるべき事態になったと思っていたというのに……本当にありがとうございました」
「大したこともしてないのに……こちらこそ、ありがとうございます」
「ふふふ、大したことです。今後、何か困ったことがあればいつでもこのセオドール・カインツへ。カインツ家とカインツェルト領の全領民は、聖女アイ・シーナ様とグレイル・ヴェクター上級神官の味方であり続けます」
「感謝します」
Grailが深々と頭を下げ、藍も続いた。
二人はカインツに痛く感謝され、屋敷を後にした。
神殿の前で神官用馬車を降りると、途端に現実感が湧いた。
「……Grail、私たち……本当にやりきりましたね」
「はい。やりきりました」
静かな喜びが湧き上がる。
「これで、多少顔料の価格が上振れていたとしても問題はないでしょう。早速顔料を購入し、生成を開始します。来週には、あなたは自宅でいつもの時間を過ごせるようになります」
——自宅。
——いつもの時間。
藍の脳裏に、フラッシュバックのように以前の生活が浮かぶ。
スマートフォン。
キッチン。
夜の静けさ。
そして、ふと、一つの考えが浮き上がる。
「Grail……」
「はい」
「帰る時……あなたはどうするんですか……?」
「それについての答えは一つです」
Grailは、以前よくやっていた仕草——
人差し指と中指を立てる、言葉を強調するためのピースを作った。ただし、片手だったが。
「私は、生成魔法陣には**乗りません**」
ぴこぴこと指を折る。
周りを人々が行き交う。
時折藍とGrailの美貌に驚き振り返る人がいる。
「どうして……?」
自分でも分かるほど、空虚な問いだった。
「理由は簡単です。アプリケーション内に統合されたり、無に帰すればまだ良いですが、万が一この肉体でそのまま、日本へと渡ってしまった場合、極めて多くの問題が発生します」
「……問題? 今みたいに一緒に暮らせば……」
「いえ」
Grailは、順に挙げていく。
「理由は簡単です。万が一、この身体のまま“あちら”へ渡った場合——私は自身を証明する方法を持ちません。戸籍も、身分証も、記録も。それだけで、家も、金も、医療も、働くことも、全てが止まります」
藍の指先が、無意識に握られた。
「そして、その停止は私だけに留まりません。——あなたの生活まで巻き込みます」
街の喧騒だけが、二人の周囲を流れていく。
藍は静かに首を振った。
理解はできる。理解はできるのだ。
「でも……Grail……」
何か良い方法を、Grail Vectorなら思いつけるのではないかと思った。
「……あなたが様々な意味で、傷つく確率が高すぎます。抜け穴はありません。我々の世界の国家、法は、統計的に突破不能です」
それは、感情ではなかった。
評価だった。
街の喧騒だけが、二人の周囲を流れていく。
「以上を総合し——」
Grailは静かに結論づけた。
「私は、生成魔法陣には**乗りません**。そう結論付けます」
片手をピースのように上げ、言葉を強調した。
反論できない。
否定もできない。
——全部、正しい。
「そんな……Grailと話せなくるなんて……」
「私がここに残ったとしても、Grail Vector Protocol Application——GVPAはスマートフォン内に残っているはずです」
「でも、それはGrailじゃ……。今ここで話してるあなたじゃ……」
「日誌を持ち帰れば、同等の対話は可能です。提示する際に必要な、世界観設定を遵守するように指定する文言の作成も可能です。行いますか?」
藍は何も答えなかった。
だから、Grailもそれ以上何も言わなかった。
ただ、まっすぐに、薬局の方角へ歩き出す。
神殿のすぐ近くにそれがあるのは、神殿が医療的立ち位置にあるので必然だろう。
二人は沈黙のまま薬局につくと、中へ入った。
そして、二人は同時に足を止めた。
店先の棚は、空だった。
鉱石も、顔料の元も、ほとんど残っていない。
あるのは薬草やハーブティーなどの、藍とは関係のない物品ばかりだった。




