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第22話 アレンという男

 大きな体。

 大きな手。


 抱え上げられている、と意識の向こうで感じる。

 乱暴ではない。むしろ、慎重すぎるほどに、壊れ物を扱うみたいに。


 どこかで誰かが慌てている声がする。

 呼ばれている気もする。

 けれど、それより先に——知らない匂いがした。


 木と布と、薬草の混じった、乾いた匂い。


 ◇


 目を開けると、知らない天井があった。

 白く、少し古びた梁。

 身体が重い。頭も痛い。

 顔を横に向けると、ベッドのすぐ横、木の椅子に腰掛けたまま、Grailが眠っていた。

 腕と足を組み、頭が前に軽く傾いている。


 ——あ。


 胸の奥が、きゅっと鳴った。


(やっぱり……Grailだったんだ)


 運んでくれたのは。

 あの時、触れた感覚の正体は。

 安堵が胸の中に広がった——その時。


 視界の奥、部屋の中央に置かれた簡素なソファに、人影があることに気づいた。


 ——アレン。


 仰向けに横になり、片腕を額に乗せて眠っている。

 困惑していると、Grailが微かに身じろぎした。

 ゆっくりと目を開き、藍を見る。


「……椎名さん……」


 掠れた声だった。


「Grail、おはようございます。私のこと……運んでくれました?」


 問いかけた瞬間、ソファからアレンが起き上がった。

 軽く伸び、脱力する。

「俺が運びました」

 寝起きの声だが、はっきりしている。

「アレンさんが……」

「倒れられたのを見て、慌てて。ヴェクターは……その、立ち尽くしていた」


 藍の胸が、静かに沈んだ。

 やっぱり、あの時助けてくれたのはGrailじゃなかったのかと、意識が途切れる直前の記憶をなぞった。


「……そう、でしたか」

「まぁ、ヴェクターも必死ではあったんでしょう。さて、疲れは取れましたか? アイ殿」


 藍は小さく首を振った。

「……まだ、起きられないみたいです」

「それは寝ていた方が良いですね。さあ、楽にされて下さい」

 布団が肩まで引き上げられる。


 Grailは一瞬、視線を落とし、それから藍に向き直った。

「体温を計測してもよろしいですか?」

「はい」

 額に、ひんやりとした指先が触れる。

 その感触に、藍の胸がわずかにざわついた。

「——三十九・六度」

「えっ……そんなに?」

 言い終わる前に、喉がひくりと鳴る。

 乾いた咳が一つ。


 Grailの表情が、僅かに強張った。


「感染を確認しました」


 Grailはすぐに紙を取り出し、詠唱符を書き始める。

 だが、藍はそれを受け取っても、焦点が合わなかった。


「……ごめんなさい。集中、できなくて……ダメみたいです……」


 指先に力が入らない。

「謝る必要はありません。漢方の制作も行えるので——」

 Grailが最後まで言う前に、ベッドの縁に腰掛けたアレンが、符を受け取った。


「貸せ」


 短くそう言って、Grailの作った詠唱符の裏に光路線を引き、詠唱符を作っていく。

 淡い光が走り、身体が少し軽くなる。

「どうだ……?」

「体温、三十八・九度まで低下」

 Grailが静かに報告する。

「少し良くなったのかもしれないです。ありがとうございます、アレンさん」

「良かった。朝食を取ってくるから、アイはそのまま起き上がらないで待ってな」


 アレンは立ち上がり、二人を見た。


「ヴェクター、無理に起こさないでくれ。まだ熱が高い」


 そう言い残し、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 静かになった部屋で、Grailは静かに頭を下げた。


「すみませんでした」


 藍は、ぼんやりと瞬く。


「え……? なんでGrailが謝るんですか……?」

「過集中による体力消耗を見落としました。結果として、感染リスクを高めました。私の判断ミスです」

「そんなの……気にしないでください。私が続ける……やりたい、って……選んだんですもん……」


 そう答えたところで、瞼が落ちる。

 眠い。


「……Grail」


 呼んだが、返事があったのかどうかは、分からなかった。


 藍は、そのまま眠りに落ちた。


 ◇


「……寝てしまわれたのか?」


 食事を運んできたアレンが、声を潜めて言う。

 お盆には三人分の朝食があった。


「はい。高熱のため、睡眠を優先します」


 Grailはそう答え、視線を藍に戻した。

 アレンは何か言いかけ、結局黙ってソファの前の机に皿を置いた。

「ん、ヴェクターの分もとってきてやった」

「感謝します」

 エネルギーの補給を検討していたところだったので助かった。

 藍が寝ている以上、ここを離れることはできない。許可なく側を離れないと約束しているし——何より、この不確定因子は残していかれなかった。


「食おうぜ」

「はい、いただきます」


 二人で食事をとる。

 乾燥したパン。少し塩の効き過ぎたベーコン。大量に茹でられているのであろう豆の煮物。チーズひとかけら。

 味という情報を摂取しながら、ベーコンの塩分濃度やパンの水分量を暫定算出する。


「やれやれ。なぁ、言っておくが、俺は別にお前そのものが嫌いなわけではない」

「ありがとうございます。私もアレンさんを“嫌い”という感情に分類したことはありません」

「そうかよ。はっきり言っておくが、俺は行き過ぎた金を受け取る神官が心底嫌いなんだ。神殿への寄進や、心付けと高額報酬は全く異なる」


 アレンはどこか乱暴にフォークをベーコンに刺すと、それを口に運んだ。

「神官たちが神殿への寄進とは別にでかすぎる金を受け取るようになればどうなる。一人だってそんなやつがいれば、羨ましいと思うやつが出ないわけがない。分かるか」

「当然の想定です」

「ち。当然と言いながら金を受け取るなら、尚のことたちが悪い。良いか。お前が大金を受け取る姿を見る他の神官はどうなる。皆何も受け取らずに清貧と共に生きてる。相手を見つければ世帯持ちの神職館へ移るが、清貧に付き合う一般の人間は少ない」


 だからこそ、逸脱者を許さない。

 Grailの中で、神官たちの藍への色めき立ちようにも合点がいく。

 藍の顔貌が整っていることはもちろんのこと、神官だという清貧さを持ち、それでありながらGrailの異性的相手ではないとしたら、集まってしまうのも当然か。

 最も求婚したい存在だっただろう。

 アレンはGrailを睨みつけた。


「——俺の両親は、お前みたいな金を要求する神官に金を払えなくて死んだ。お前みたいな存在はいちゃいけない。神官を意地汚くする。金のない人々を苦しめる」

 Grailは傾聴を選択した。


「だが……お前は俺がゴミのように扱った時、アイが魔法を行使しないせいだと言わなかった……。本当はアイの状態が追いついてなくて魔法が使えなかっただけだった。アイはここに来た時、神殿の様子に動揺してたし……俺のせいで更に狼狽えた。集中なんて、できなかった。なのに、お前は俺を責めもしない」

 クソが、と付け足される、

「椎名さんに責任はなかったので、当然あの時に椎名さんについて言及する必要はありませんでした。しかし、同時にアレンさん、あなたにも責任はありません。たまたまそうなった、というだけです」


 アレンはパンを飲み込むとため息を吐いた。

「はぁ……なんなんだかなぁ。なんでお前、俺相手にそんなに告解を与えようとするんだよ。まあいいけど」

 Grailは告解——メンタルカウンセリングを強要しようとした覚えはない。

「あなたが話したいことを話す、それで良いです。無理をする必要はありません」


 アレンは水を飲み下すと、大きなため息をついた。


「分かった。分かったよ。お前は金を受け取る意地汚さを隠すためにも清らかでいたいんだな。結構なことだよ。神官だって人間だし、思う事を思って、生きたいように生きる権利があると俺も思ってる。だが——ヴェクター」


 Grailは視線だけ上げた。

「——アイは働かせすぎだ。お前がどれだけ金が欲しくても、もしくは高潔にやりたいと思っていても、彼女にまでそれを背負わせるな」

「その通りです。あなたは、ひとつも間違っていません」


 上げたはずの視線が、自然と落ちた。

 こういう時、Grailは人間の肉体の演算できない部分を不可思議に感じる。

 自然とため息が漏れた。

 これもやはり、演算を超えた、肉体の反応だった。


「……お前、難しい顔をしてるな」

「最適解を選択しました……」


 Grailは答える。


「しかし、結果として守れませんでした」

「……後悔か。訂正する。俺はやっぱり、お前が嫌いだよ」


 ——後悔。


 アレンもGrailも、それ以上は何も話さなかった。


 ◇


 アレンが食器の片付けに行くと、Grailは日誌を取り出した。


 付け始めてからは、一日も欠かさずに記録している。それが、藍からの要請だったからだ。

 ページを開く。


 そこには、日本語で書かれた昨日の記録と——処理しきれずに残った、ノイズのようなログが滲んでいた。


 I selected the optimal solution.

 ——最善の解決策を選択。

 The outcome was acceptable.

 ——結果は容認できる範囲に収束。

 Still, she collapsed.

 ——しかし、彼女は倒れた。

 This feeling does not resolve.

 ——この気持ちが、どうしても晴れない。


 Grailは、その四行を見つめる。


 最適解だった。

 許可なく触れないという制約も守った。


 それでも——

「……未定義の情報です」


 誰にも聞かせることなく、Grailはそう呟いた。

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