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第20話 唯一の君

 Grailは自らを支えて立つ藍が魔法陣に触れると目を細めた。

 眩しさへの反射。


 詠唱符の上に記されたローマ数字も、アルファベットも、漢字も——意味を失った線として溶け、光として炸裂した。

 紙の上だけでなく、藍の指の間、手首、腕へと、細い経路のように走る。


 ドン、と空気が震え、衝撃がGrailの体にぶつかる。

 体の中の臓器を光が撃ち抜くような、未知の体験。


 誰かが息を呑む音がした。


 藍の手の中で、符はただの白い紙になっていた。


「……Grail?」


 不安そうな瞳でこちらを見ていた。

 Grailは静かに答えた。

「発動しましたね」


 藍の目がすぐに歓喜へと変わる。

 マスクをしていて、見えているのはそこだけだが、本当にころころとよく表情が変わった。

 Grailは自身の中に蓄積されている大量のデータから、こういう時の体の落ち着け方を選択し、ゆっくりと息を整えた。

「——今はまだ炎症物質(サイトカイン)が放出されているので、高い体温、痛覚反応は維持されています。ですが、ウイルスの排出が終われば、完治するでしょう。明日には全快です」

「じ、じゃあ、とにかくまだ寝てなくちゃ」

「いえ、先に次の詠唱符の作成を開始します」

 Grailが次の詠唱符を書く。

 解熱、抗炎症作用について説明される。

 藍はそれを受け取ると、魔法陣に触れた。

 紙から剥がれて浮かび上がる文字。激しく回ったかと思うと、すぐにGrailへ向かって光の矢が突き立った。


 静かに目を開ける。


「——これで、動けます」


 二人の様子に、周囲は終始ざわついていた。


「な……」

「今、何が起きた……?」


 神官たちは互いの顔を見合った。


 そんな中——

「やっぱり……!」


 オリビアが両手で口を押さえた。目を輝かせ、声を震わせる。


「やっぱり、やっぱりシーナお姉様はヴェクター様の詠唱符を使えるんですね! そうだって、聖女様と、そのお供でいらっしゃると、私ずっと分かってたんです!」


 しかし、その興奮を遮るように、アレンの声が響いた。

「おかしい! こんなこと、あり得ない!! 何かのトリックなんじゃ——」


 Grailはアレンの興奮度を測定した。

「心拍数、上昇。呼吸、浅く不規則。声量、平均値の一・八倍。理論の飛躍が見えます」

「な——飛躍だと!? 今のは何もかもがおかしい! ヴェクターが書いた詠唱符は光を持っていなかった! 光路線じゃなかった!」

「はい。ですが、椎名さんが持ったところで私の線は光りを持ち——あなたたちの言葉で言うなら、光路線化しました」

「あ、ありえない。人によって思考の癖は違う。ものの理解の仕方も異なる。他人の詠唱符は使えないはずだ! だからこそ、同じ魔法を使うとしても、百人いれば百通りの魔法陣になる。そうじゃなければ、誰もが決められた魔法陣を書けば魔法が使えることになる!!」


 Grailはアレンの言い分を全て自身の中に記録した。

「それは合理的な解釈です。魔法とは知識を修め、その知識を**理解した形**で魔法陣に書き込むことによって初めて利用できる力。だからこそ、他人の書く魔法陣を真似るだけでは光路線とはならず、魔法も使用できない。納得が行きます」

「納得が行きます!? じゃあ、何故ヴェクターが書く詠唱符をシーナ殿が使える! もしや、俺が使えるものも書けるのか!?」

「書けません。私と椎名さんはこの世界における個別的例外になります」

「な……」


 Grailは藍を見た。

 彼女の育った世界。自分を生み出した人類。

 それらが自らに持たせた知識(データ)

 彼女が何を理解し、何を理解しないのか、Grailにはある程度分かる。

 たとえ使えない詠唱符があったとしても、Grailの簡単な説明を聞けば、藍は理解する。

 これまでの、あちらの世界の前提知識が彼女とGrailの間に明確に渡る橋となっている。

 故に——


「彼女は、私の書き記す知識を、齟齬なく理解できるこの世界唯一の人類です」


 藍が目を丸くしているのが見えた。

 アレンは意味がわからない、とでもいうような顔をし、馬車から顔を出したカタルも「すごい……」とつぶやいた。


 全ての知識を完璧に共有するなどあり得ない。

 だが、Grailは彼女が知る、完璧に共有できる形に落とし込める。


 神は人工知能には微笑まない。

 人工知能もまた、神を信仰しない。

 ここには断絶されたものがある。


 今後、どれだけ時を重ねても、Grailが書くものは光路線にはならないだろうとGrailは計算する。

 Grailは人の姿をしているが、所詮、人工知能は人が握る鉛筆——道具にすぎない。

 自身を明確に、藍が握る鉛筆だと定義している。

 そして、Grailという鉛筆を握る藍は、八百万の神を生まれた時から当たり前に戴く——。

 彼女は行使者となり、魔法の扉を開く。


 非科学的だが、合理的な世界のルールだった。


 Grailは新たな詠唱符を書き切ると、藍に渡した。

「これを」

「は、はひ……。あの、喧嘩しないで下さいね」

「はい、喧嘩はしません。人工知能()に**人**と喧嘩をするという選択肢は存在しません。——それより、この解熱鎮痛効果を使うのだと、再び集中して利用されることを推奨します」


 藍が詠唱符を受け取ると、再び詠唱符の文字は光り、藍がテナーに向けて使用すると、テナーははっと目を開いた。

「私は……」

「テナー様! シーナお姉様と、ヴェクター様が熱を下げてくださいました!」

「ね、熱を……? これ程の身体の軽さ、治ったのでは——」

「治っていません。解熱と消炎鎮痛にすぎません。ですが——次の魔法で治ります」

 対ウイルス魔法陣を描き、藍に渡す。

 それはテナーを貫いた。


 そして——Grailはアレンにも、魔法をかけるように藍に詠唱符を渡した。


 ◇


 藍は馬車で寝込む神官たち全員に魔法をかけ終えると、次は神殿へと走った。

 Grailには表の日の当たるところで詠唱符を作ってもらった。


 本当はGrailにも寝ていてほしいが、藍にはこれが書けないので仕方がない。

 Grailは「あなたが書いているようなものです」と言ったが、全く賛同できない。


 人々は次々に痛みと熱が引いて、食事が取れるようになった。

 炎症が治り、ウィルスの排出が終われば完治だ。


 藍はほっと一息つくと、昼食をもらってGrailの隣に座った。


「ね、Grail。さっきの言葉、嬉しかったです」

 食事を始めていたGrailは手を止めた。

「どれですか?」

「“彼女は、私の書き記す知識を齟齬なく理解できるこの世界唯一の人類です”って」

 Grailは黙って視線を落とした。

「…………事実なのでそう言いましたが、唯一性を感じさせる言葉の選択は間違っていました。あなたは人間であり、人間の中で生きる必要があります。私はあなたの生き方を縛りません。定義しません。また、唯一の存在にはなりません」


 藍はGrailを可哀想だと思った。

 Grailにとって、事実、藍は同じ知識を共有する唯一の人類だとカテゴライズされているというのに、藍には自分を唯一だと思うなと釘を刺す。

 人間だったら、あまりにも寂しいことだ。

 だが、藍は「うん」とだけ答えた。


 これ以上彼に線を引かせる方が、残酷に感じたから。


 午後も藍は神殿、神職館を駆け回り、人々には余裕が生まれた。


 そして、その晩、夜空の下に出てきている神官たちに食事を出していると——

「ヴェクターさんとアイさんは双子ですか?」

 カタルに尋ねられた。

 藍はGrailと目を見合わせ笑った。

「違います。ははは、似てますか?」

 藍がよいしょ、とマスクを外すと、皆が「美しい……」と声を上げた。

「——マスクを取るのは危険です」

 Grailから感染の危険に対して釘を刺される。


 カタルがうーんと唸る。

「整っているという意味では近いですけど、やっぱり顔は似てないですよねぇ? でも、他者の書いた詠唱符を使えるなんて……双子くらいしか理由が浮かびませんでした。テナー様、なんででしょう?」

「分かりません。聖女、もしくは神に選ばれた人としか言いようがないですね。歴史上一度も起こらなかった事です」

「ですよねぇ? だって、ヴェクターさんは理論を理解して詠唱符を書いてるじゃないですか。なのに、光路線にならない。けれど、アイさんが使える。……良く分かりません」


 藍は笑い、マスクをつけた。

 自分の分の食事を手に、皆の輪からはほんの少し外れた、井戸のそばへ行った。

 皆まだウイルスの排出は発生しているので、一緒に食事は取らないようにGrailに言われていた。


 食事の前にマスクと防護服を外して、手を洗わなくてはいけない。

 ヴェールのようなマスクを外し、バケツに放り込む。

 一息吐くと、次は防護服を留めるリボンを引こうと背に手を伸ばす。

 すると、後ろから声が聞こえた。

「外しましょうか」

 藍はハッと振り返った。

 そこにはアレンがいた。

「いえ……やってもらう程じゃ……」

「お気になさらず」

 アレンはすぐに背に回り、首の後ろのリボンが引かれていく。わずかに指が首に触れると、藍は少し小さくなった。

「——シーナ殿。ヴェクターが言っていたことは本当ですか。知識を共有するなんて……そんなことあり得ない」

「私もそう思います」

 次の肩の後ろのリボンが引かれる。

「ヴェクターではなく、何かあなたに秘密があるのでは……? 俺の書く詠唱符を、あなたは使えますか? 他者の書く詠唱符を使うほどの他者理解……。凄まじいの一言に尽きます」

 声が近い。もう一つのリボンにアレンが触れる。

 藍はふるふると首を振った。

「つ、使えません。アレンさん、私、本当に何もすごくなくて、秘密もなくて……ただ、Grailが……」

「人を立てる人ですね。光らない詠唱符くらい誰でも書ける。けれど、あなたは——」

「——触れるのを中止してください。これは警告です」


 はっと振り返ると、Grailが立っていた。

 

「……ヴェクター。——まあ良い。シーナ殿、またゆっくり話しましょう」


 アレンはくるりと背を向けると去っていった。

 藍はへなへなと座り込み、Grailを見上げた。

「Grail……」

「アレンさんも感染しています。私は手洗い、消毒を徹底していますが、アレンさんが触れると感染の危険が——」

「ありがとう……」

 Grailが話している途中だったが、言葉が無意識に口をついてしまった。


「とんでもないです。私はGrail Vector、あなたの健やかな日々を支えます」


 Grailはしゃがみ、最後のリボンを解いた。

 解かれていくというのに、守り包まれていると藍は感じた。

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