第19話 藍の過去
Grailの長い長い講釈を聞き、藍は「よし……」とノートを閉じた。
「多分、できます。ちょっと自信ないですけど……」
藍が言うと、Grailは詠唱符を取り出した。
「では、書き始めます」
「——なんだ? 魔法を使う気になったのか……?」
アレンがGrailの後ろから覗き込んでいた。
「はい、やってみようと思います」
「どんな魔法なのか楽しみだなぁ?」
鼻で笑い、藍の隣に座った。
Grailが理論を口にしながら詠唱符を書き出す。
その瞬間アレンは腹を抱えて笑った。
「ははは、なんだ、それは。お前、光路線になってないぞ。魔法陣として成立していない」
パッとGrailの手から書きかけの詠唱符を取ると、アレンはすぐさま立ち上がった。
「——神官の真似事はやめろ。お前の推理ごっこに付き合わされているうちはアイ殿も魔法が使えない。人々が熱で浮かされているんだ」
詠唱符が破り捨てられる。
「お前には雑用以外できることはない。分かったら早く立ち去れ。ここでは金を払える余力のある人間もない。俺は御領主に、お前は何もしなかったと報告するから戻ったって金は受け取れない。良いな」
破かれた詠唱符が踏み躙られ、アレンは去っていった。
藍は破かれ、踏まれたそれを手に取ると悔しさに目に涙を浮かべた。
「ひ、酷い……。こんなことまで……」
「椎名さん、それはあなたの痛みではありません。詠唱符はもう一度書くだけで取り戻せます」
Grailを振り返ると、“大丈夫だよ”の笑顔を作っていた。
静かに頷き、座り直す。
「Grailが全部やってるのに……こんなの、こんなのあんまりだよ……」
「僕が全部やってるんじゃないよ。椎名さんが全ての鍵だから。僕だけがいても、魔法は使えない。それに、アレンさんも病に向き合って必死に治療を進めてる。役に立つかどうか分からない人間が大金を受け取ることを聞いていたら、気持ちも揺らぐ。そういうものだよ」
「なんでそんなに優しいことが言えるの……? 悔しくないの……?」
「僕は何も感じない。だけど、あなたがそうやって悲しそうにすることは……容認できる事態ではないと思う」
Grailがハンカチを取り出し、涙を拭ってくれる。
藍は目を閉じてそれに身を任せた。
「じゃあ、もう一度やってみよう」
「はい。お願いします……」
「はじめます」
Grailが詠唱符を書いていく。何が書かれているのか分かる。
これは使える。
そう思い、藍は鼻を鳴らすと、Grailから詠唱符を受け取った。
——だが、光らない。
「なん……で……?」
Grailは杖ペンと詠唱符をしまうと、立ち上がり、藍に手を差し伸べた。
「動揺しています。ここに来た時、ここの神官であるローディス氏が“詠唱符を作る集中力が及ばず、詠唱符が動かない”と言っていました。知識への集中が必要だと思われます」
「そんな……」
「明日、また行いましょう。今日はもう十分やりました。あなたは理論を身につけた。さあ、行きましょう」
藍はGrailの手を取り、あまりにも重い腰を持ち上げた。
◇
その日の夜には——具合の悪そうな顔をする神官が何人もいた。
テナーは「万が一に備えて緊急要請の手紙を書く」と言って複雑そうな顔をしていた。
また幌馬車の中で丸まって横になる。
Grailは「感染症対策という意味でも空気の入れ替えがある馬車の入り口は良い条件です」と言った。
Grailが夜中に一人防護服を洗う気配を感じながら、藍は三日目の朝を迎えた。
咳が響く幌の中で、藍は不安が滲んだ。
「Grail、朝です」
Grailをゆすると、Grailの顔は青かった。
「Grail!?」
「——椎名さん。おはようございます……。今……起きます……」
初日、Grailは人々の前に膝をついて話を聞き、丁寧に接した。
一番患者の近くで、腰を長く下ろして過ごしていたのは彼だった。
「Grail、Grail、起きないで少し休んだ方が……」
「……体温が上昇しています。……感染を確認しました。現在、初期症状です。ですが、今ならまだ動けます」
「そんな——」
「そ、そうだ……。ヴェクター……」
幌馬車の奥から声がする。顔を青くしたアレンが起き上がった。
「ここで踏ん張らなくては、神殿で休む民の中から死者が出る……。お前も遊んてばかりいないで、下働きをしろ……。金が欲しいんだろうが……」
「うぅ……」
アレンの隣で、カタルが呻き声を上げる。
アレンは詠唱符を作り始めた。
「……カタル、大丈夫か」
「アレン先輩……ありがとうございます。食欲がないです……。テナー様は?」
「先ほど手洗いに——」
アレンが答えようとすると、外からオリビアの声がした。
「テナー様!!」
何事かと幌馬車から身を乗り出すと、テナーが倒れていた。
「テ、テナーさん!!」
藍が飛び出すと、Grailが後を追おうとする気配がする。
藍は慌てて振り返り、それを止めた。
思わず触れたGrailの体は想像以上の分厚さを感じた。それと同時に、弱っている体だということも伝わってくる。
「Grail——Grailはここにいて下さい!」
「椎名さん……あなたの身の安全が……何よりも……」
苦しそうに言葉が途切れる。
テナーを必死に起こすオリビア。
他の幌馬車からもうめき声。
防護服を着て、完全に距離をとっていた藍と、下働きのオリビアしか、もうまともに動ける者はいなかった。
どうしたら——
「どうしたらいいの……」
藍が泣きそうになっていると、支えているGrailはポケットから紙を出した。
「——椎名さん、大丈夫です。落ち着いて」
「お、落ち着けないよ。私、私……魔法も使えなくて……皆悪くなって……私のせいで——」
「椎名さんのせいじゃ、ない。君は怖かったんだから、仕方がない……。話してくれたことを覚えてるよ。君のお父さんは少し怖い人だった。お母さんは離婚してくれたけど、その後、まだ幼かった君をおばあさんに預けた。君は子供の頃怯えていたと話してくれたね」
なぜ、今その話を——
「昨日のあれは、君の心に残る悲しい気持ちに確かに触れた。大きな体の男性が、力で押さえつけようとする何かを感じた。それに、日本で育てば暴力なんて身近じゃない。相手が人工知能であっても、一方的に貶められる様を見ていられなかった」
Grailは反対側を向き、腕で口を覆って咳をした。
「——だから、怖くて集中できないのは普通だよ。そうじゃなかったら、君は人じゃないくらい。だから、君は君のままで良いよ。大丈夫」
藍の中の気持ちが一つずつ丁寧に撫でられ、折り合いが付けられていく。
「Grail……」
「焦らないで。椎名さん。あなたはもう、大人だよ」
Grailの差し出す折られた詠唱符を受け取る。
藍はそれを開いた。
「……やるよ、私」
「うん、落ち着いたらで良いよ」
Grailが笑う。
ローマ数字やアルファベット、現代の言葉と漢字が入り乱れる、どこか邪悪さすら感じさせる符。
けれど——
(神様、Grailを治してあげて——)
藍が符に書かれる文字に触れた瞬間、光が炸裂した。




