第14話 いけすかない男
第14話 いけすかない男
前に座るGrailは静かに口を開いた。
「約十五万リル前後です」
藍は目を見開いた。
「か、帰れる……!」
「はい。私がお伝えした、顔料の最低目標値である十九万八千リルへ、ほぼ届く額です」
Grailはそこで一度、言葉を切った。
藍の表情を見ている。
「ただし——補足があります」
「補足?」
頷き、Grailは集落でもらった自分の鞄から紙とペンを取り出す。
そして、整理するように口を開いた。
「顔料は、それ単体では使用できません」
「……え?」
「先ほど見た通り、顔料は色の粉です。定着性がありません。何らかの媒介物——展色材を用いて初めて、絵の具として機能します」
紙に簡単な図を描いていく。
「候補は三つあります。水、膠、卵です」
「水なら簡単ですね?」
「水は最も簡便ですが、定着率が低い。膠は定着性は高いものの、扱いが難しく、品質差が出やすい」
ですが、と紙に丸をつける。
「卵——正確には卵黄は、我々の世界でも長期間使用されてきた手法です。保存性、発色、再現性の点で優れています」
「卵なら、手に入りやすいですね」
「はい。神職館の厨房で確保できる可能性が高い。その点では、現実的です」
藍は少し安心したように息を吐いた。
だが、Grailは続けた。
「さらに、混色用のパレットが必要です」
「パレット……」
「はい。顔料と展色材を均一に混合するための器具です。
また、筆も必要になります」
藍はGrailが握っている杖ペンと、出かける前にカタルがくれた杖ペンを見た。
「ペンじゃだめなんですか?」
「はい。つけペンはインク専用です。顔料は粒子が粗く、吸い上げが不均一になるため、掠れや欠損が発生します。あの生成物が“機能”を持つためには、恐らくそれは許されません」
Grailは淡々と述べる。
「極細筆が必要です。加えて、筆は使用時に一定量の顔料を吸収します。これは書字には使用できない、不可逆的な消費です」
藍には段々Grailが何を言いたいのかが分かってきた。
「つまり……」
「はい。理論上の必要量に加え、実際には“使用不能分”を含めた余剰が必要になります」
Grailは一瞬、目を伏せた。
「正確に算出すると——現在想定している顔料量では、最低限、です」
藍はゆっくりと椅子にもたれた。
「……帰れると思ったのに」
「帰還は、依然として選択肢の一つです。ただし、カインツ氏の提案を受け取ったとしても、即時ではありません」
Grailは視線を上げ、静かに言った。
「だからこそ、慎重に進める必要があります」
「でも、目標値にはすごく近づきますよね……?」
「もちろんその原則は変わりません。ただ、ご承知の通り金銭報酬は労働要請を履行し、帰還した後に、正式に受領される形です」
Grailは一度ペンを机に置くと、視線を落としたまま続けた。
「私の判断としては、椎名さんをここに残す選択肢はありません」
続く言葉を藍はもうすでに知っている。
「——しかし、同行も推奨できません」
矛盾した言葉だった。
しかし、Grailは迷いなく続きを並べた。
「感染症、もしくは私の知識体系に存在しない“呪い”が蔓延している可能性すらあります」
——呪い。
まだ見たことはないが、皆が魔法がある前提で話している。
魔法が存在するのであれば、呪いもまた、存在する可能性はある。
「そのような環境に、あなたを連れて行くことは、許容できません」
藍は、何も言えなかった。
そこに、ふとノックが響く。
「はい」と声を返すと、向こうからは知らない低い声がした。
「シーナ殿、御目通りを」
藍はGrailと目を見合わせた。
「あ、はひ! 今出ます」
ソファから離れ、そっと扉を開けると、向こうにはランタンを持った神官がいた。神官服越しでもその筋肉質さを感じる。
彼は、先ほど領主の館でGrailに声を荒らげた者だった。
「こんばんは。先ほどは大きな声を出し、嫌な思いをさせてしまったことを詫びに参りました」
小さな花を一輪差し出され、藍は思わず瞬いた。
「えっと……わざわざありがとうございます。私は気にしていませんので」
「寛大なお言葉に感謝します。今度前庭で花でも愛でましょう。ところで、失礼ですが、ヴェクター殿はどこにいるかご存知——」
と、神官が言ったところで、Grailが立ち上がった。
「はい、Grail Vectorです。ご用件はなんですか?」
「ここにいたのか、ヴェクター殿。金のためにやるのなら、中途半端な真似は絶対に許さないからな。俺はお前を見ているぞ」
「承知しました。もし要請に応えることがあれば、精一杯着手します」
「……もし応えることがあれば……? まさか、行かないつもりか」
「現状そのように考えています」
神官は軽蔑した目をしてGrailを睨んだ。
「金が足りないか。金と人の命を天秤に乗せるその卑しさ。いつかお前の足を引っ張ると覚えておけ」
「あなたは正義感ある、とても善良な人です。そして、合理的な思考を持ちます」
「何?」
「一方、理論が飛躍する部分があります。そういったことは、疲労が強い時に起こりやすいので——」
「ぐ、Grail。良いですから。良いですから!」
Grailに煽っている気はまるでないのだろう。
だが、目の前の神官にとっては侮辱に取られかねない雰囲気があった。
「あの、申し訳ないんですけど……今大切な話をしていて……続きはまた今度にしてもらえませんか?」
「……えぇ。シーナ殿、また嫌な思いをさせてしまいましたね。俺はあなたには何も感じるものはない。女神官が一人で巡礼司祭を続けるために用心棒が必要なのも理解できる」
ただ——と、神官は忌々しげにGrailを見た。
「相棒は選んだほうが良い。これは忠告です。あなたの品位にも関わる」
藍はそんな風に側から見えているのかと言葉を失った。
「あの……Grailは何も悪くなくて……」
「あなたは優しい。オルム集落でも心付けを受け取るだけだったと聞いています」
「それは……」
「何か困り事があれば、いつでも、このアレン・レッドウッドの部屋を訪ねてください。助けになります」
「レッドウッドさん、ありがとうございます」
「アレンで構いませんよ。俺は聖女殿の味方です」
アレンは藍の手を取ると、そのまま口のそばまで手を上げ——そのまま離された。
「見飽きない美しさですね。危険管理が必要なわけです。では」
胃もたれするような不思議な残り香を置いてアレンは帰って行った。
「……て……手にキスするのかと思った……」
「元の世界では——と注釈はつきますが、ハンドキスは実際に唇を手に触れさせないことで、相手への深い敬意や称賛を示します。時には——愛情も」
藍は特大のため息を吐いた。
そして、Grailの前に座り直す。
「疲れた……。全部忘れて、話の続きをしましょっか……」
「そうですね」
Grailは頷くと、先ほどの続きを始めた。
「今まさに起きた、こう言う事態もあります。あなたを神職館に残す場合、私の視認範囲から外れます」
今のアレンという神官のせいで——いや、そうでなくとも部屋の隅に大量に置かれた花束もある。藍は不安だった。
手の中で一輪の花をもじもじと触る。
「神職館は安全ですが、“完全”ではありません。人的要因、意図しない接触、予測不能な事象が存在します」
「はい……」
「私が不在の間、あなたの安全を百分率で保証することはできません」
Grailは、そこで言葉を切った。
一見すると、冷静な分析。
けれど、藍には分かった。
これは——答えが出せない状態だ。
「置いてもいけない。連れてもいけない。どちらを選んでも、あなたの安全が損なわれる可能性が残ります」
Grailは、ゆっくりと息を吐いた。
人間のような動作だった。
「より良い回答のため、長時間の思考を行うことは可能です。行いますか?」
藍は、首を横に振った。
そんなものをしたところで、前提は変わらない。
藍の中の不安も、変わらない。
だからこそ、藍は言った。
「私ね、行きます。一緒に」
「それは推奨できません」
即答だった。
「危険です。感染症状が確認されている地域です」
「大丈夫」
藍は遮るように言った。
「大丈夫、Grail。ちゃんと対策します」
Grailは首を振った。
「危険へ向かう人間を、それも——」
声が、ほんの僅かに強くなる。
「私が最優先で守ると決めている存在を、行かせる判断はできません」
藍はなんでそんな言い方をするの、と一瞬呼吸が止まった。
Grailの表情はたいして動いていない。けれど——必死だ。
藍は、はっきりとそう感じた。
彼は心配している。
自身を製造した、「これこそ守るべき人類」と設計されているであろう、藍という人間を必死に守ろうとしている。
これは彼の意思であって、意思ではない。
そうあれと設計されただけのこと。
藍は心の中を占めそうになるGrailへの気持ちに必死に蓋をした。
「大丈夫です! しっかり手洗いします。生活も分けます。距離もとります」
「しかし——」
「マスクもつけます!」
一瞬、間が空いた。
「……椎名さん。マスクは、所持していません。それに、呪いだった場合、マスクは貫通する可能性が高いです」
「えへへ、そうですけど、でも——ないよりましですし……」
何より——
「この顔は隠せます」
藍は肩をすくめる。
その様子を見て、Grailは数秒、完全に黙った。
演算している沈黙。
やがて、結論が出る。
「……では」
「では?」
「対ウイルス防護を可能とし、尚且つ人々を魅了するその顔貌を隠せる物品を作成しましょう」
藍は目を細めた
「ありがとうございます。やりましょう」
「はい。明日の朝、布を買いにいきましょう。また少し目標額からは離れますが——」
「リターンは大きい、ですよね?」
「はい。その通りです」
話が一段落つく。
「では、片付けを行います」
紙とペン、インクを鞄にしまっていく。
その様子を見て、藍は小さな声でつぶやいた。
「……部屋に戻るんですか?」
Grailは手を止めると、鞄を下ろした。
「不安ですか?」
「ちょっと……」
「では、今夜はこのソファで座位にて就寝します。侵入される確率は非常に低いですが、ここにいることで、あなたの心理的負担は減らせます」
「すみません……」
「いえ。私はGrail Vector。あなたの健やかな日々を支えます」
Grailは再び鞄を開くと、中からノートとペンを取り出した。
「私はこれより、この世界の文字体系の最終確認を行います」
「最終確認?」
Grailは立ち上がり、花束へ向かう。
何をするのか見ていると、花束に差し込まれている手紙を取り出した。
「こちらを確認してもよろしいでしょうか」
「もちろん良いですよ。どうせ私には読めないですし」——必要もないし。
「では、失礼します。人間の書く文字のある程度自然な形、文語、口語の距離感が掴めます」
ペン先で封が破かれ、手紙を取り出す。
「——あなたのその美しく柔らかい髪に感銘を受けました。この花束の中から、ただ一輪でも構いません。あなたの髪に、花を飾らせてください」
「はぇ」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。
「手紙は口語で書かれていますね。処理します。人間の筆記を学習します」
「あ、は、はい」
そして、次の手紙を取り出す。
「——シーナ殿。私はあなたが前庭を歩く時、鳥の囀りに耳を傾け、物憂げに空を見上げた様を見て、全てを悟りました。あなたは神に愛されていると」
「えぇー……」
Grailが次の手紙を開いて読み上げようとすると、藍は手を挙げた。
「あの、私に気を遣って読み上げてくれてます? それとも、読み上げるのは学習に必要ですか?」
「必要ありません。どうせ読めない、と仰ったので、朗読するべきと判断しました」
「じゃあ……もうおしまいでいいです。Grailが必要な学習だけしてください」
「承知しました」
そこからのGrailのスピードは、やはり人間ではなかった。
藍は花束をかき集め、部屋に置いてある水差しに花を入れていった。
水差しは二つあったが足りない。
藍はGrailに声をかけた。
「Grail、Grailの部屋にある水差しも持ってきていいですか?」
「構いません。ですが、私が取りに行くことも可能です」
「隣だから大丈夫です。すぐに戻りますね」
藍がパタパタと部屋を出ていくのを、Grailは最後まで見送った。
Grailの頭の中に、ついて行くべきだったか、それとも扉を開けておくべきかと選択肢と思考が走る。
本人の主体性を損なわず安全を確保するなら、扉を開けておくべきだと、これまでの情報が物語る。
Grailは扉を開けるため立ち上がる。
藍の部屋を出ると、隣のGrailに割り当てられた部屋へ声をかけた。
「椎名さん。安全確認のため、戸を開けておくことを推奨します」
返事はない。
ノックする。
やはり返事はない。
Grailの中に演算ではない何かが生まれる。
それは、体が不測の事態に相対して発生させている信号のようだった。
「——椎名さん。扉を開けます」
扉を開けるが、中にはいない。
廊下を見渡すがどこにもいない。
隣の部屋までとはいえ、一人で行かせるのは適切だったかなどを演算する——間も無く、体が動く。
Grailは駆け出した。




