ありがとう
いったい、自分はどこで間違ってしまったのだろう。佐藤の提案に飛びついたときか? それとも、彼が店に現れたときに安易に舞台に誘ってしまったときだろうか。今思えば、ろくに素性も知らぬ男を舞台に誘ったのは軽率すぎた。あの男と関わらなければ、麗子と出会うこともなかったのだから。
美穂の忠告を無視したことも悔やまれる。何度も計画の中止を訴えかけられていたというのに、大金の誘惑に目が眩み、まったく耳を貸そうとしなかった。彼女の言葉に耳を傾けてさえいれば、こんな最悪の事態には陥らなかったはず。今さら悔やんでも遅かったが、彼女のほうが正しかったのだ。
今さらではあったが、早々に芝居の道をあきらめて定職に就き、美穂と平凡な家庭を築けばよかったのだ。ちっぽけなエゴに固執することなく、何者でないことを認め、普通の幸せを目指せばよかったのだ。これまでコールセンターで働く者たちを軽視してきたが、今では彼らのほうが自分よりよほど立派だとわかる。自分も彼らのように堅実に生きてさえいれば、トラブルに巻き込まれることもなく、美穂と二人で穏やかに暮らせていたのだ。
今回のことでようやく気がついた。自分は美穂と出会えたことで、すでに最高の幸せを手にしていたのだ。それが見えていなかった。今回は奇跡的に大切な人を失わずに済んだが、これは神様がもう一度やり直すチャンスを与えてくれたのかもしれない。だったらこのチャンスを絶対に無駄にはできない。
もし、美穂が今回のことを許してくれるなら、彼女のためだけに地道に生きよう。堅実な生き方をして、二度と彼女を危険な目に遭わせはしない。いつも舞台の最前列で輝く目を向けながら応援してくれていた彼女のためにも、もう一度人生を一からやり直すのだ。芝居は今後、趣味として続ければいい。数人の仲間たちと、金をかけずに気軽にやるのだ。
だからもう、これ以上は何も望まない。彼女がそばにいてくれるだけでいい。それだけで充分だ。もう絶対に彼女を離しはしない——。
未来に想いを馳せていたところで、機動隊員の一人がおもむろにズボンを下ろした。
「え……?」
思わず息が止まった。血の気がさっと引いていく。
他の隊員たちも、次々と腰のベルトを外して紺色のズボンを下ろし始めていた。床に座り込んで編み上げブーツの紐を解いている者もいる。
拓海は目を疑った。味方だったはずの者たちが、一転して悪意ある存在へと変わっていた。最高潮に達した不安が胸を強くしめつけてくる。すでにほとんどの隊員がズボンを下ろして下着を見せていた。中には下着も脱ぎ捨て巨根を露わにしている者もいる。防護ヘルメットのせいで彼らの表情が読み取れないだけに異様さが際立っている。さらに、鍛え抜かれた下半身の筋肉が、暴力的な威圧感を放っていた。背広姿の刑事たちはというと、その様子を面白がるように眺めていた。
意識を取り戻していたらしい美穂が、異変に気づき絶望的な視線を向けてきた。拓海は彼女の視線を直視できなかった。とても彼女を気遣えるような余裕はなく、現実から逃避したい気持ちでいっぱいだ。
佐藤はというと、この状況に無言で顔を硬直させていた。すると、刑事の一人が笑いながら彼の腫れた足首を蹴り上げた。佐藤が悲鳴を上げる。いや絶叫だ。
目の前で繰り広げられている光景に、拓海は震えが止まらなくなる。強烈な吐き気と目まいに襲われ、視界が白くぼやけていく。今では自分がどんな体勢でいるのかもはっきりしなくなっていた。
意識が落ちかけたところで、突然、目の前の液晶モニターが白く光った。眩しさに一瞬目を細める。
画面に、麗子の顔が映し出されていた。満面の笑みに、悪い顔が貼りついている。
麗子が手錠をかかげ、おどけた調子で語りかけてきた。
「拓海さん、これ見て。わたし、悪いことしちゃったから、こんなのつけられちゃった」
恐怖が最高潮に達して、胸が張り裂けそうになった。
「なーんてね♪」
麗子は笑いながら両腕を左右にぱっと広げ、軽々と手錠を断ち切った。どうやらまた、見事にだまされたようだ。地獄はまだ、終わってはいなかったのだ。
目が回り出す。目の前の光景が、夢か現実かも曖昧になっていく。この短時間で起こった急激な展開に思考が追いつかないでいる。今は息をするのさえ辛く感じた。麗子が何やら喋っている。ところがその声は、どこか遠くから響いてくるようで頭に入ってこない。やがて、胸がえぐり取られるような辛い苦しみに襲われた。窮地を脱したはずが、すぐさま地獄に突き落とされた。今は目の前にコンクリートの壁が迫って来ているというのに、押し潰されるのをなす術もなく待ち構えているような心境だ。逃げ場はなく、希望はゼロだ。本当の絶望を知った気がした。
液晶モニターを見ると、麗子の隣にアサミと呼ばれる女が立っていた。もとのクールな表情に戻っている。
「——というわけで、アサミさんにも協力してもらって、一芝居打ったってわけ。助かったと思ってほっとしてたでしょ? あなたもバカね。こんなところに警察が来るわけないじゃない」
そこで麗子が手にしていたタブレットを一瞥する。
「拓海さん、だいじょうぶ? 今あなた、すごい顔してるわよ。ふふ。でもわたし、そんな顔が見たかったの。徹底的に打ちのめされて、心底絶望した人の顔をね」
このまま消えてしまいたかった。今駅のホームにいたなら、向かってきた列車に迷わず飛び込んでいただろう。
彼女は得意げに続ける。
「ちなみにあの変態さんたち、すごいリアクションだったでしょ? だってあの人たちには何も教えてなかったんですもの。おかげで期待以上のものを見せてくれたわ」
麗子に変態と呼ばれた男たちは、いまだ困惑した様子で地面にしゃがみ込んでいる。見た目通り、気の小さい連中なのだろう。今では先ほど感じた脅威は微塵も感じられなかった。
気づけば、屈強な身体をした機動隊員たちが美穂を取り囲んでいた。すでにみな下着を脱ぎ捨て、常人離れした巨大な男性器を剥き出しにしている。何人かはそれをしごいてさらに大きくさせている。その様子を、ビデオカメラを手にした白シャツの男たちが物静かに撮影している。
拓海は美穂に目をやった。彼女は死人のように虚空を見つめている。おそらく心は崩壊寸前だろう。いや、もしくはすでに崩壊しているかもしれない。
これから行われることを思えば、一思いに美穂を死なせてやりたかった。できればいっしょに死んでやりたかった。だがここでは、そんなささやかな願いすらも叶いそうもなかった。
「ではでは、仕切り直しといきましょうか」
麗子が手を叩きながら愉快そうに声を上げた。
液晶モニターの向こう側に、重厚な革張りの赤いソファが二つ映し出された。その間には、白いクロスのかかった丸いローテーブルが配置されている。
ローテーブルの上にはワインボトルと二つのワイングラス、そしてクッキーのようなものが入った白い皿が置かれている。
麗子はソファに腰を下ろし、手にしていたタブレットをローテーブルに立てかけた。もう一つのソファにはアサミと呼ばれる女が座った。
「わたしたちは、ここから見物させてもらうわ」
麗子はそう言うと、皿の上のクッキーのようなものを一つ口に放った。
液晶モニターに沢尻の姿が映る。彼はワインボトルを開けると、ワイングラスに赤い液体を注いでいく。拓海はその様子を力なく見つめた。
今さら遅かったが、〝金持ちの狂人〟を敵に回してしまったことを心底後悔した。とにかく何から何まで手が込んでいて、ドッキリの域を完全に超えていた。背中に「POLICE」と書かれた機動隊員たちはどう見ても本物にしか見えなかったし、背広姿の刑事たちも同様だ。見た目だけでなく、みな迫真の演技をしていた。驚くことに、麗子が刑事と揉み合った場面でさえフェイクだったのだ。
拓海の脳裏に、麗子が沢尻とともに楽しげに計画を練っている姿が浮かんだ。今思えば、顔の火傷を偽ったあの特殊メイクも、ハリウッド映画並みのクオリティーだった。まともな人間はあんなことはしない。あの時点で、彼女の異常さに気づくべきだったのだ。
ここで麗子が、少し悲しげな表情で画面越しに語りかけてきた。
「拓海さん、わたし、あなたがそんなに悪い人じゃないってこと知ってるわ。あなた、根はかなりいい人よね。でもね、お金のために自分を殺そうとしてきた人を許せるほど、わたしは寛容じゃないの。あなたも逆の立場だったらどう思うか考えてみて。きっと同じことをするはずよ。そうなの。人って、やられたらやり返したくなる生き物なの。自分のことになると、人って簡単には相手を許せなくなるものなのよね。だから、ごめんなさいね。悪いけどあなたには、それ相応の罰を受けてもらうわ」
拓海はあきらめの境地で麗子の言葉に耳を傾けていた。
「あと、最後に一言だけ言わせて。だまされたふりしてだまし続ける生活は予想以上に楽しかったわ。今日でそれも終わりかと思うと、少し寂しい気もするくらい。しばらく退屈な日が続くかもしれないわね。それくらいあなたは最高の遊び相手だったってこと。これ褒めてるのよ」
拓海が液晶モニターから視線を外すと、美穂と目が合った。彼女は瞳に絶望を宿しながらも、慈愛に充ちた眼差しを向けてきた。
たっくん、来世でやり直そう——。そんな眼差しだった。その瞬間、強烈な哀感が拓海を襲った。
「あああああ!」
すべてを悔やみ、涙があふれ出た。彼女は恋人であり、親友でもあった。本当に大切なことがわかったというのに、やり直す機会は失われてしまった。自分のエゴを優先したばかりに、愛する者の未来すら奪ってしまったのだ。
自分はどこで間違ったのか——。佐藤の提案に飛びついたときか? いや、そもそも才能があると信じて役者を目指した時点で、自分の人生は狂い始めていたのかもしれない。何者でもない自分が何者かになろうとした時点で、きっと歯車は狂い出していたのだ。
麗子の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「改めてお礼を言わせていただくわ。拓海さん、わたしを楽しませてくれてありがとう。わたしを殺そうとしてくれて本当にありがとう。心から感謝してるわ」
すると、麗子が手招きする仕草を見せた。どうやら、あちら側にいる撮影者に合図を送ったようだ。液晶画面が近づいていき、すぐに画面いっぱいに彼女の顔が広がった。
画面越しに麗子と目が合う。その目に釘づけとなった。
彼女がニコッと笑う。
「拓海さん、覚悟はいい? 地獄の宴の始まりよ」
〈了〉
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