沢尻の実力 ②
【悪魔も聖書を引用できる——】
衝撃のラスト!
あなたはきっと騙される!!
「痛う……」
拓海は左のこめかみに手を当てた。無人のキッチンルームで水差しに薬を垂らしていたところで頭痛に襲われたのだ。
このところ、ひんぱんに偏頭痛に見舞われていた。たかが頭痛ではあるが、頻度が多いだけに不安は募る
やや痛みがやわらいできたところで、拓海は大きなため息を漏らす。スラックスのポケットから小瓶を取り出し、じっと見つめる。できれば、もう一度キャップを外し、あと数滴加えたかった。それだけ死期が早まるからだ。正直、明日にでも麗子には死んでもらいたかった。全身が彼女と同じ時間を共有することを拒絶していた。一分一秒でもいっしょにいたくないと、体全体が叫んでいた。今の自分に必要なのは、運でも才能でも努力でもなく、ただ我慢という忍耐力だけだった。その忍耐力が、ここにきて限界を迎えつつあった。
先日佐藤に会った際、彼は薬の量を調整して麗子の命を一年ほど延ばしたほうが賢明ではないかと提案してきた。確かにその通りかもしれない。だが、一年もの延長など拓海には考えられなかった。こんな偽りの生活は、あと数か月が限界だった。
好きでもないのに良き夫を演じ続けるのは、想像以上の苦行だった。やはり、人という生き物は嘘をつけないようにできているのだ。大胆な平気で嘘をつけるのは、正常な感情を持たないサイコパスだけだろう。拓海は今回のことで、自分がまともな人間であることを知った。
かつて、拓海は佐藤に自信たっぷりにこう言ったことがある。待つのには慣れている、と。だが、それは正確な表現ではなかった。実際は、結果的に待つことを強いられた人生だったにすぎない。もし演劇を始めたばかりの学生時代に、三十を過ぎても役者として成功できないと知っていたら、役者の道は早々にあきらめ、普通の職に就いていただろう。長らく役者を続けてこれたのは、数年後には成功できるだろうという根拠のない自信があっただけで、決して強い意志があったからではない。
「待つことが、こんなに辛いなんて……」
拓海の口から思わず苦痛の声が漏れる。そしてもう一度大きなため息をつくと、小瓶をポケットにしまい、水差しを手に持った。
「拓海様、それは?」
急に声をかけられ、拓海は危うく水差しの水をこぼしそうになった。
声の主は沢尻だった。
「申しわけございません。いきなりお声がけしてしまって」
「……い、いや。で、何?」
「今、何をポケットにしまわれたのかと」
「え……!?」
心臓が早鐘を打つ。こんなところで警戒を怠った自分を叱責する。だが、小瓶をしまうところを見られたとあっては、何らかの説明がなければ沢尻は納得しないだろう。
拓海は平静を装いながら小瓶を取り出して沢尻に見せる。
「ただのアロマだよ。風味づけに使ってるんだ」
「なるほど、そうでしたか。少しよろしいですか?」
沢尻がそう言って手を差し出してきたため、拓海は仕方なく小瓶を彼に手渡した。
拓海は内心の動揺を悟られないよう軽く笑みを浮かべながら沢尻の様子を見守る。彼は小瓶のキャップを開けると匂いを嗅ぎ、やがて不審げな顔をしてから自分の手のひらに一滴ほど垂らし、舌でぺろっと舐め上げた。その瞬間、拓海は口から心臓が飛び出しそうになるほどの衝撃を受けた。
沢尻がキャップを閉めて小瓶を返してきた。
「ほとんど香りはしないようですが」
「ほんとに?」拓海はキャップを開けて香りを嗅ぐふりをする。「あ、ほんとだ。少し古いから、香りが飛んじゃったのかもしれない。新しいのに変えなきゃだな」
「そのほうがよろしいですね」
沢尻の言葉に拓海は安堵する。どうやら無事、この局面を切り抜けられたようだ。
水差しを持って麗子の待つ寝室へ向かおうとすると再び沢尻から声がかかる。
「拓海様、今お時間よろしいですか?」
「え……?」
まだ何かあるのか! 拓海は警戒するように身をこわばらせる。
「例のストーカーの件なんですが」
「ああ、そのことか……」
拓海はほっと胸をなで下ろす。しかし、依頼していたことはすっかり忘れていた。
沢尻から簡単な説明を聞いたあと、拓海は水差しをキッチンカウンターの上に置いてスマホを確認した。
「すごい……」
拓海は思わず感嘆の声を漏らした。
過去のXの投稿を隅々まで確認したが、ストーカー女からの誹謗中傷めいたコメントはすべて消えていた。
拓海は沢尻にたずねた。
「……でも、どうやって?」
「方法は私にもわかりませんが、そういうことを得意とする人間がいるんです。ご満足いただけましたか?」
「うん、想像以上だったよ」
「それはよかったです。また何かありましたら遠慮なくお申しつけください」
笑みを浮かべて立ち去ろうとする沢尻を拓海は呼び止める。
「あ、ちょっと待って」
「何でしょう?」
拓海は財布から一万円札を数枚取り出した。
「これ、少ないけど」
「いえいえ、それはけっこうですよ。前にもお伝えした通り、先代が残された裏資金がありますから気になさらずに」
「いや、でも気持ちだから」
「いえ、本当にけっこうですから」
沢尻は丁重に謝礼を断り、薄い笑みを見せて立ち去っていった。
拓海は彼の背中を見送りながら思った。沢尻は裏資金から、いくらかくすねているのかもしれないなと。だが、たとえそれが事実だとしても何ら問題はない。それで拓海が損をするわけではないのだから。むしろ、彼がその秘密の資金から恩恵を受けていることを願った。今後も彼に頼るかもしれないのだから、彼には気持ちよく働いてもらいたかった。
今回の結果を受けて、拓海は沢尻との関係をさらに強化していこうと決意した。いずれ、佐藤の件でも彼の力を借りることになるかもしれないのだから。
沢尻の予想以上の力を知り、拓海は強力な武器を手に入れたことを実感した。自然と顔がほころんでいく。
拓海は気を良くしながら、水を満たした水差しを手に麗子の寝室へと足を向けた。
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