Track45「サヨナラ」
「幸」
「なんですか?」
「お前、一回弾くのやめろ」
コーヒーを排出した自販機が無情な音を立てる。それを取り出した彩斗さんは缶を脇に挟み、僕に二つの問いを投げ掛けた。
「どうしてですか?」
喚きたい気分だ。泣いて、喚いて、彼の気を引きたい。けれども今日は騙されてなどくれないことが痛いほどに分かった。
冷静に、冷静に、そう自身に言い聞かせながらリンゴジュースを指差す。指定通りの物を輩出する自販機は二度目の無情を奏でた。
「俺はお前が可愛いよ。素直に慕ってくれてるし、言うこと何でも利くしな。でも、このままじゃ弾けないままだろ」
「そんなことありません! 僕は……」
「楽しいか?」
「楽しいですよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないです」
「お前が楽しいのは〝俺といること〟であって〝ピアノを弾くこと〟じゃない」
それの何がいけないのだ。僕は彩斗さんといたい。彩斗さんに傍にいて欲しい。彩斗さんに離れていって欲しくない。だから彩斗さんの言う通りにした。なのに突き放すとは何事か。僕の何がいけなかったのだ。
「幸」
「嫌です」
反応のない僕に彼が答えを急かす。けれども、こればかりは「分かりました」と頷くわけにはいかなかった。
「嫌です! どうして皆、僕を捨てるんですか!?」
「捨ててない」
「捨てるって言ったじゃないですか!?」
「言ってないよ」
「言った! 嫌! 嫌! 嫌だもん!」
耳を塞ぎ、その場に蹲る。僕の〝拒絶する心〟を分かって欲しかった。
「幸」
優しい声だった。くぐもっていたけれども、僕の頭上に優しい音が降り注ぐ。
「お前の望む〝俺〟に、俺はなってやれないよ」
「僕は彩斗さんが……!」
「違うだろ? お前の記憶が拒絶するものを解決しないと弾けるようにはならない」
僕の手を大きな掌が包み込む。優しく外された耳栓は温もりで溢れていた。言葉の意味が分かる。分かるからこそ、拒絶してしまいたかった。
「だったら僕は……ずっと弾けなくていい」
ピアノは手段だった。いつだって誰かの傍に居る為の手段。〝彼〟が望む音を出せたのなら、僕はもう一度望んで貰えるのだろうか。僕は幸せでありたいだけなのに、大切な人に幸せであって欲しかっただけなのに、いつだってどうにも出来なかった。
「じゃあ俺とお前は〝サヨナラ〟だ」
美しい声音が残酷な言葉で透徹を震わせた。彼は僕に何を言わせたいのだろう。何をさせるつもりなのだろうか。
「どうして、そんなこと言うんですかぁ……!」
双眸から零れる真珠を、優しい指先が刈り取っていく。残忍なことをしでかしたのは彼なのに、儚い笑みが言外に何かを告げていた。けれども、それを汲み取れない。僕の〝耳〟が正常なら、彩斗さんの想いに耳を澄ませることが出来たのだろうか。
「なぁ、どうしてピアノをやめたんだ」
「彩斗さんも僕を要らないって言うんだ……」
「幸」
彼の声も聞こえなければよかったのに。そう胸を痛めるのに、僕の心は優しい〝言葉〟を欲していた。耳が聞こえないフリをしてしまおうか。そう思うほどに心が淀んでいた。




