Track44「揺蕩う現実」
拒絶反応を示す鼓膜に、僕が出来ることは何だろう。いつから〝音〟を聞いていない? いつから〝彼〟と会っていない? いつから〝まとも〟に弾いていない? どの問いにも答えられない僕は弱い子供で、そんな自身を嫌えるほど強く出来てはいなかった。
期待を寄せる両親に「楽器の音が聞えないんだ」と告げることも出来ず。僕は今日も揺蕩う現実に身を任せている。いつも通り誰かの〝声〟に耳を澄まして。
「どうした?」
兄が出来たみたいだった。初めて会った時は少しばかり恐怖を覚えたりもしたが、彩斗さんは見た目と違い優しい人だ。僕が、しつこく絡んでも邪険にはしないし、誰に対しても真摯で誠実だった。
「なんでもないです」
「そうか」
毎日、毎日、僕は鍵盤を叩いている。まるでピアノをやっていた頃のようだ。血の滲むような日々ではなくとも、音のないガラクタに向かう日々は、正直苦痛以外の何物でもない。それでも、彩斗さんが言ったことには従いたかった。僕は、もう二度と捨てられたくないから。
「別にいいんだぞ? 弾きたくなきゃ弾かなくても」
「でもライブだって、いつするか分かりませんし、耳もほら……ある日突然聞こえるようになるかもしれないじゃないですか」
邂逅のレコーディングスタジオで、僕が奏でるピアノは、相変わらず壊れそうな音を放っているらしい。彩斗さんが、少し、ほんの少し悲しそうに笑うものだから、なにを言われずとも分かってしまった。
「僕は弾きたいです。僕の弾くピアノで彩斗さんに歌って貰いたい」
「幸は頑張り屋だな」
「頑張るくらいしか出来ませんから」
「頑張ることも才能だぞ。俺は努力とか大っ嫌いだ」
ベーっと舌を出した彼と顔を見合わせて笑う。「少し休憩しようぜ」と言われたので、僕は素直に頷くことにした。
「モモさん」
「モモが、どうかしたのか?」
「……なんでもないです」
「どうしたんだよ。今日は何か変だぞ」
レコーディングスタジオを出て、自販機に向かおうとしていた最中、思考が零れ落ちる。頭を振れば、彼が訝しんでいるのが分かった。
これは、くだらない独占欲だ。誰にも立ち去って欲しくない僕は、縛ることでしか自分の心を守れない。けれど、いや、だからこそ本心など口に出してはいけないのだ。二度と間違えたくないのなら、何も言ってはいけなかった。
口に出せば、彼は受け入れてくれるのだろう。歳の離れた兄は、やたら甘やかしてくれるものだと聞くし、彩斗さんの性格上、見捨てることはしない。でも甘えすぎてはいけないのだ。
「本当になんでもないんです」
「でも……」
「彩斗さんは今日もコーヒーですか? 僕は何にしようかな!」
「ああ、今日も奢ってやるから好きなの選べ」
「いつもありがとうございます」
笑顔の仮面を被り、少年らしく振舞う。そうしていれば彼は騙されてくれるのだ。優しい、優しい〝お兄ちゃん〟だから。
——モモさん、邪魔だなぁ。
なんて間違っても口に出してはいけない。弟として可愛がって欲しいのなら、生意気を言ってはいけないのだ。




