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第9話 職人の夜

 深夜一時。

 静まり返った自室に響くのは、左手デバイスの規則的な打鍵音と、スタイラスペンが液晶パネルを擦る微かな摩擦音だけだった。


 配信ソフトもブラウザも落とし、スマートフォンの通知もすべて切っている。

 トリプルモニターの中央には、天音りりかの新夏衣装――サマーニットパーカーとショートパンツを纏った天使のイラストが、圧倒的な密度で展開されていた。


「よし……ベースの着彩はこれで完了だな」


 独り言を呟きながら、俺は次の工程――Live2D用の『パーツ分け』作業へと移った。

 一般的なVTuber業界において、キャラクターデザインを描くイラストレーターと、それを動かすLive2Dモデラーは分業されることが多い。

 だが、分業にはどうしても壁が生じる。

 モデラーが「ここを動かしたいのに裏側の塗り足しがない」と嘆き、絵師は「立体構造を無視して変形された」と頭を抱える――そんな現場の悲鳴を、前世のオタク仲間から嫌というほど聞いてきた。


 だが、今の俺にはその壁が存在しない。

 絵を描きながら、同時にモデラーとしての完成図が脳内でリアルタイムに組み上がっているのだ。


「あいつ、前に通話で言ってたよな。『ママ、私ホラゲで叫ぶと画面から飛び出すくらい激しくジャンプしちゃうんだよね!』ってさ」


 苦笑まじりに思い出を呟きながら、レイヤーフォルダを細かく展開していく。


「なら、跳ね上がった時の可動域は上下に三割広く取っておくか。……あと、りりかは頭を大きく振る癖もあるから、横髪の裏側の描き足しも通常より広く取らないとな」


 前髪、横髪、後ろ髪、アホ毛、三つ編み、後れ毛。

 髪の毛のパーツだけで四十以上のレイヤーに分割し、それぞれが動いた際に見える頭骨のラインと影を丁寧に描き足していく。


「『ママぁ、フードの中とか見えちゃったら恥ずかしいかも!』とか言ってたけどさ……見せないように影を落とすのがプロの腕の見せ所なんだよ」


 パーカーのフードは、首の回転(XYZ軸)に合わせてどう追従するか。

 襟元の影は、顔の角度によって落ちる位置をどう変えるか。

 前世の社畜プログラマー時代に培った立体的かつ幾何学的な空間計算能力と、白咲まひろとして積み上げてきた繊細な色彩感覚が、寸分の狂いもなく噛み合っていく。


「……ふぅ。我ながら頭おかしいな、このパーツ分け」


 作業開始から三時間。レイヤー数が三百を超えたところで、俺は思わず苦笑した。

 画面の中で微笑むりりかの新衣装。

 だぼだぼのサマーニットから覗く華奢な鎖骨、布地の柔らかさを感じさせるドレープ、健康的な太ももに落ちる光と影。

 二次元的な可愛さと、解剖学に基づいた骨格の説得力が完璧な調和を保っていた。


「こいつ……白咲まひろって絵師、マジで天才だな」


 自分の肉体と技術のことなのに、どこか他人事のように感心してしまう。

 パーツ分けを終えたデータをモデリングソフトに読み込ませ、テスト用の物理演算を起動してみた。


「お、動いた動いた。……いいぞ、髪の揺れも自然だ」


 キーボードを操作し、アバターの首をかしげさせる。

 ふわりとサマーニットの裾が揺れ、天使の羽をあしらったヘッドセットが軽やかに跳ねた。

 瞬きをさせれば、長い睫毛が伏せられ、瞳の中の星のハイライトが生きているように揺らめく。


「……完璧だ。これなら配信でどんなに暴れても破綻しない。……何より、うちの娘が世界一可愛い」


 画面の向こうの我が子を見つめ、思わず口元が緩む。

 時計の針を見ると、すでに午前四時を回っていた。

 窓の外の空が、ほんのりと白み始めている。


「よし……このまま勢いでパラメータの最終調整まで一気に終わらせちまうか……?」


 前世の社畜時代、納期前の深夜テンションで徹夜に突入していたときの悪癖が、ふと顔を出した。

 足元の冷蔵庫から、作業用のエナジードリンクの缶に手を伸ばそうとする。


 その時だった。


 チカッ、とデスクライトの光が一瞬だけ瞬いた。

 頭の奥底で、カチリと冷たい音が鳴り響く。


 ――胸が急激に締め付けられ、呼吸が浅くなる。

 ――誰もいない深夜のオフィス。冷たくなったキーボードに突っ伏し、そのまま息絶えた、あの孤独な最期の記憶。


 伸ばしかけた右手の指先が、ピクリと小さく震えた。


「…………」


 俺はエナジードリンクに触れかけた手を、静かに引っ込めた。

 深く息を吐き出し、胸に手を当てて呼吸を整える。


「……やめだ、やめ。今世まで社畜やって死ぬつもりかよ」


 前世の過ちを繰り返す気はない。

 今世の俺は、好きな絵を描いて、愛しい娘を愛でて、幸せに生きると決めたのだ。

 机の上のエナドリを遠ざけ、代わりにコップ一杯の常温の水をゆっくりと喉に流し込む。


「最高の絵は、生きてる人間しか描けないんだよ」


 完成したモデルデータとイラストファイルをひとつのフォルダにまとめ、暗号化をかけて圧縮する。

 そして、Discordを開き、寝静まっているであろうりりかのアカウントへ送信した。


『新衣装のモデルデータ、完成したよ。動作テスト済みだから確認してみて。……私はもう寝る』


 送信ボタンを押し、PCの電源を落とす。

 部屋が暗闇に包まれた瞬間、俺はベッドに倒れ込み、心地よい疲労感とともに深い眠りへと落ちていった。


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