第8話 幕間:昔のまひろと今のShiro(くろえ視点)
深夜二時。
都内の自室で、私――橘くろえは納品完了の送信ボタンを押し、深く息を吐いた。
「……んーっ! 終わったぁ……! 今月の修羅場、完全クリア!」
ペンを置き、冷蔵庫から取り出したレモンサワーの缶を開ける。
プシュッという音とともに一口喉を潤し、作業用の椅子に深く身体を預けた。
フリーランスのイラストレーター。絵師名は「Chloe」。
ゲームやVTuberのデザインを手掛ける、いわゆる中堅の絵師だ。
「さて、息抜きにネットでも見ますか」
スマホを手に取り、X(旧Twitter)を開く。
だが、タイムラインを眺めていた私の指は、『トレンド』の画面でピタリと止まった。
日本のトレンド上位に、見覚えがありすぎる単語が並んでいたのだ。
『#Shiroママ』
『顔反射事故』
『ポスターの影』
『清楚美少女の脳破壊』
「……は? Shiroママ……?」
思わず瞬きを繰り返す。
Shiro。白咲まひろ。
私にとっては数少ないリアルの仕事仲間であり、プライベートでも家を行き来する一番親しい後輩の名前だ。
「まひろちゃん……? え、嘘でしょ、炎上でもしたの!?」
冷や汗が背中を伝う。
あの子は人見知りで繊細で、自分の容姿にも技術にもまるで自信がないような、放っておいたら消えてしまいそうな儚い女の子だ。
そんな子が炎上に巻き込まれたら、ショックで寝込んでしまう。
慌てて『#Shiroママ』をタップし、万単位で拡散されている切り抜き動画を再生した。
動画タイトル――
『【神回】清楚系美少女ボイスのShiroママ、ビキニ新衣装を一蹴して缶ビールを喉に流し込む【切り抜き】』
「……へ? 缶ビール……?」
首を傾げた直後、スマホから聞き慣れた透き通るダウナー美少女ボイスが流れてきた。
『だーめ。うちの娘にそんな、はしたない格好させられるか。ビキニなんて絶対却下』
続いて響く、プシュッという金属音。
そして喉を鳴らした後に漏れ出た――世にも深い吐息。
『……ぷはぁ。あー、うめぇ……五臓六腑に染み渡るわ……』
「ぶふっ――!?」
口のサワーを危うくスマホに吹き出しそうになった。
激しく咽せ込みながら画面を凝視する。
「ま、待って……誰!? 今の声、絶対にまひろちゃんだよね!? えっ、お酒!? あの子、お酒なんて飲めたっけ!?」
私の知るまひろちゃんは、居酒屋でカシスオレンジを一口舐めただけで顔を真っ赤にするアルコール激弱美少女のはずだ。
それが何なの今の!?
一番搾りの五百ミリ缶を一気飲みした直後の、場末の赤提灯にいる中年オヤジみたいな声は!?
画面ではVTuberの天音りりかちゃんが『ママー! かっこいいー!』と叫び、コメント欄は『助かる』『脳が破壊された』の弾幕で埋まっている。
「な、何が『かっこいいー!』よ……! 完全に休日の競馬場で娘に説教してるお父さんじゃないの……!」
混乱に頭を抱えつつ、私はもう一つの話題――『顔反射事故』のクリップを開いた。
画面には液タブを走る白くて細い指先。相変わらず神がかった美麗な線画だ。
だが作業の合間、液タブが一瞬だけ暗転した。
その瞬間。
光沢パネルに、コンマ数秒だけ映り込んだ――奇跡のような造形の横顔。
黒髪ロング、陶器のような白い肌、少し眠たげで儚いタレ目。
「…………っ」
息を呑み、スマホを強く握りしめる。
「……やっぱり、反則でしょ。その顔……」
溜め息とともに胸が締め付けられる。
初めてオフ会で会った日の衝撃は忘れられない。
美少女ゲームから抜け出してきたような現実離れした可憐さ。女の私ですら初対面で心臓を跳ね上げさせられたほどの美少女だった。
それなのに、まひろちゃん本人は自分の容姿に無頓着そのもの。
いつもだぼだぼのパーカーですっぴん、「私、人と話すのが苦手で……」と小さく震えていたのだ。
だからこそ、私は放っておけなかった。
「この子は私が守ってあげなきゃ」
「悪い男に騙されたらどうしよう」
過保護に世話を焼き、服を選んであげたり、部屋に行ってご飯を作ってあげたりしてきたのだ。
まひろちゃんは私のことを「気の置けない飲み友達」と呼んで無邪気に笑ってくれるけれど――。
私にとってあの子は、時折見せる無防備さにドキッとさせられる、放っておけない特別な後輩なのだ。
それなのに……!
「その顔を、何万人も見てる配信で反射させるってどういうことなのよ……!!」
焦る私をよそに、まとめスレのオタクたちは過保護に盛り上がっていた。
『ガチの超絶美少女じゃねえか!』
『でも部屋の照明が直下すぎる。間接照明にしろ』
『液タブにアンチグレアフィルム貼れ。防犯意識を持て』
「……受ける側も過保護すぎでしょ。なんなのこのあったかい地獄……」
さらにXを開くと、まひろちゃん公式から声明ポストが出ていた。
『昨夜の手元配信ではお見苦しい機材トラブルがあり申し訳ありませんでした。画面に反射していたのは部屋のポスター等の影であり、他意はございません。今後も顔出し等の予定は一切ございませんので、どうか静かに作品を見守っていただけますと幸いです。Shiro』
「ポスターの影で押し通せるわけないでしょ、バカァ!!」
私は叫び、クッションに顔を埋めた。
苦し紛れにもほどがある。
リプライ欄も案の定『了解した! ポスターの影だな!』と全肯定オタクの優しい嘘で埋め尽くされている。
「……まったく、もう」
クッションから顔を上げ、天井を見上げる。
呆れの奥に、ほんの少しの安堵があった。
「……でも、前よりずっと、いい顔して笑うようになったよね」
以前のまひろちゃんは、絵を描く時もプレッシャーに怯えているようだった。
それが今の動画では、サバサバとお酒を飲みながら、本当に楽しそうに「うちの娘」を描いている。
まるで憑き物が落ちたみたいに。
「まあ……あの子が元気に過ごせるなら、先輩としては喜ぶべき、なのかな……」
小さく微笑みかけた――その時だった。
脳裏に、重大な懸念が閃いた。
「――って、喜んでる場合じゃないでしょ!!」
ガタッと立ち上がる。
あの子が配信でビールを煽っているということは。
防犯意識ゼロで画面に顔を反射させているということは。
「絶対、部屋の中がゴミ屋敷になってるに決まってる……!!」
散乱するビールの空き缶。床に脱ぎ捨てられた部屋着。
何日もまともなご飯を食べず、玄関の鍵すら閉め忘れて液タブの前で寝落ちしている姿が浮かぶ。
「ダメよ、見てられないわ……!」
スマホのカレンダーを開き、スケジュールをスクロールする。
「今週末、商業のラフ出しが終わったら――すぐに合鍵持って突撃するわよ、まひろちゃん!」
だらしない生活をお説教して、散らかった部屋を片付けて、栄養のあるご飯を食べさせてあげる。
あんな無防備な美少女を、野放しにしておけるわけがないのだから。
「覚悟してなさいよ……!」
深夜の部屋で一人、私は決意を込めて残りのレモンサワーを一気に飲み干したのだった。
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