第5話 手元だけならバレないだろ
配信開始の三十分前。
俺は自室の作業デスクで、スマホスタンドに小型のWebカメラを固定していた。
「よし……アングルはこんなもんか」
テスト画面を確認する。
画面に映っているのは、液晶ペンタブレットの黒い作業面と、そこに置かれた俺の右手だけだ。
前世の社畜プログラマー特有の厳密な検証精神を発揮し、顔や部屋の背景はおろか、だぼだぼのパーカーの袖口より上は一切映り込まない完璧な画角を構築した。
「手元だけなら、顔バレもしないし部屋の生活感も出ない。これなら文句ないだろ」
我ながら完璧な防犯対策だと満足していると、デスクの隅に置いたスマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、メッセージアプリに一通の通知が表示されている。
『橘くろえ:配信見たよー。なんか最近急に元気だね。今度まひろちゃんの家、突撃するから部屋片付けといてね』
「げっ……くろえさん……」
思わず変な声が出た。
橘くろえ。業界の先輩イラストレーターであり、この世界で白咲まひろとして暮らしてきた中での数少ないリアルな友人だ。
前世の記憶が戻る前から親交があるが、もし今この部屋に入られたら、足元に転がるビールの空き缶とガサツなおっさん生活にどんな説教を食らうか分かったものではない。
『Shiro:作業中だからまた今度! 部屋は綺麗です!』
秒速でそう打ち込んでスマホを伏せ、俺は気を取り直して配信ソフトの『配信開始』ボタンをクリックした。
タイトルは『【手元カメラ】新衣装の清書と線画進める【Shiro】』。
昨日の今日ということもあり、配信開始と同時に同接カウンターは猛烈な勢いで跳ね上がり、あっという間に二万人を突破した。
『きたあああああ!!』
『手元カメラきちゃああああ!』
『待ってましたShiroママ!』
『手が! ママの手が画面に映ってる!!』
ペイントソフトの画面の左上に、ワイプ形式で小さな手元映像を載せている。
そこに映し出されたのは――だぼだぼのグレーのパーカーの袖口から、ちょこんと覗く俺の右手だ。
透き通るように白く、節くれのない細い指。
爪は綺麗に切り揃えられ、薄い皮膚の下に淡い青の血管がうっすらと透けている。
そして、薬指と中指の第一関節には、まひろがこれまで何万時間とペンを握り続けてきた証である、小さく硬いペンダコがちょこんと乗っていた。
コメント欄が、一瞬の静寂ののちに大爆発を起こした。
『手が美少女すぎるうううううう!!』
『白ッ!? 細ッ!? 指ながッ!?』
『萌え袖から覗く指先助かる助かる助かる』
『完全無欠の美少女ハンドじゃねえか!!』
『ペンダコあるのガチの職人すぎて尊い……泣きそう』
「……は? みんな何騒いでんの?」
マイクのミュートを外し、俺は心底わけがわからないという調子で呟いた。
「手元が見たいって言うからカメラ付けたけどさ。ただの手でしょ、これ。骨と皮ですよ。何がそんなに珍しいわけ?」
『「ただの骨と皮」発言草』
『その骨と皮が国宝級の美しさなんよ』
『萌え袖あざとすぎんだろママ!』
「あざといわけないでしょ。冷房で指先が冷えるから袖引っ張ってるだけ。ほら、作業進まないからお喋りはここまで。線画描くよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、俺は液タブのガラス面にスタイラスペンを走らせ始めた。
左手デバイスのキーを流れるような指さばきで叩き、拡大、縮小、回転、アンドゥを無駄なく繰り返す。
右手はまるで生き物のように滑らかに弧を描き、迷いのない一本の極細のラインを画面の上に引いていく。
カサ、カサ、とペン先が擦れる小気味よい摩擦音。
だぼだぼのパーカーの袖が揺れるたび、画面越しでも伝わってくる圧倒的な繊細さと美しさ。
雑談で茶化していたリスナーたちも、次第にその神業のような手捌きに息を呑み始めた。
『……指の動きが綺麗すぎて見惚れる』
『迷い線が一本もないのヤバすぎるだろ』
『左手のショートカット捌きが完全にプロのそれ』
『りりかちゃんの髪の毛、一本一本生きてるみたいだ……』
チャット欄には、いつの間にか本人の姿もあった。
『【天音りりか】:ママの手、すっごく綺麗……! 私、この手から生まれたんだね……一生見てられるよ……!!』
「りりか、お前はまた変なこと言って……。ほら、配信の準備とかしなくていいのか?」
『【天音りりか】:ママの手元見るのが今一番大事なお仕事だもん!』
「仕事しろ仕事」
呆れつつも、娘に褒められて内心悪い気はしない。
前世の社畜プログラマーの血が騒ぎ、作業スピードはさらに加速していった。
だぼだぼのサマーニットの柔らかな質感、スポーティなショートパンツのシャープな縫い目。画面の中で、りりかの新衣装が命を宿していく。
「よし……これで上半身の線画は粗方終わったな」
時計の針は二時間を回っていた。
長時間の集中で肩が凝り、ふぅと息を吐いてスタイラスペンをデスクに置く。
「ちょっと休憩。水分補給させて」
立ち上がりかけた、その瞬間だった。
グラフィックボードに急激な負荷がかかったのか、デスクトップPCから『ブツン』と嫌な電子音が鳴り響いた。
次の瞬間、作業用のメインモニターと液晶ペンタブレットの画面が、同時に真っ暗にブラックアウトしたのだ。
「えっ……嘘だろ、ドライバ落ちた!?」
突然のトラブルに焦り、俺は思わず液タブの画面を覗き込んだ。
部屋の照明が煌々と照らす中、バックライトの消えた黒い液晶パネルは、まるで鏡のように周囲の景色を反射し始めていた。
そして――真上からデスクを捉えていた手元カメラのレンズは、その暗転した画面を真正面から捉えていた。
(……待て。今、画面に――)




