第六章:血塗られた記憶の迷宮
#ミステリー #杉沢村 #都市伝説 #創作
江戸はその屋敷の敷居を跨いだ。踵が板張りの床に触れた瞬間、背後で鳴った扉のきしみ音は、陽気な子供の笑い声へと変わった。
――ドクン。
杉沢の冷気は瞬時に消え去った。死体の腐臭は、温かい味噌汁とシナモンの香りに取って代わられた。江戸が瞬きをすると、先ほどまでの漆黒の闇は消え、見覚えのある黄色いシャンデリアの光が部屋を明るく照らしていた。
「江戸、手を洗ってきなさい。お父さんが帰ってきたわよ」
静寂を破ったのは、穏やかな母の声だった。
江戸が振り向くと、食卓には皿を並べる母の姿があった。顔立ちは生前のまま美しかったが、その目は……瞳孔がなく、ただ真っ白なキャンバスのように虚無だった。
「母さん……?」江戸の声が詰まる。
一歩前に踏み出そうとしたが、足元の床が異常に柔らかい。見下ろすと、板張りだった床は何千もの人間の手に変わり、互いに指を絡ませながら江戸の足を繋ぎ止めようとしていた。江戸がたじろいだ瞬間、目の前の光景は再び激しく変貌した。
今度は父の書斎へと続く廊下にいた。頑丈なチーク材の扉の向こうから、鈍い衝撃音が響く。――ドサッ!ドサッ! それに続いて、重い何かを引きずる音が聞こえてきた。
「覗いてはいけないよ、江戸」
父の重々しい声が四方八方から反響し、ひび割れた壁からは黒い液体が染み出し、家全体が震えていた。
幻覚はさらに狂気を増していく。廊下の壁は意思を持った母の絵画で埋め尽くされ、描かれた人物たちが枠から這い出し、江戸の服を掴もうと手を伸ばす。江戸は悲鳴を上げ、耳を塞ぎ、父の書斎の扉へと体当たりした。
――パリン!
幻覚の世界は、ハンマーで叩き割られた鏡のように粉々に砕け散った。
江戸は冷たく埃っぽい床に倒れ込んだ。割れた窓から差し込む青白い月光が、残酷な現実を照らし出していた。屋敷は空っぽで、朽ち果て、蜘蛛の巣に覆われている。しかし、父の巨大な執務机の下に、彼は「本物」を見つけた。
わずかに浮き上がった床板の下に、陰山家の家紋が粗く刻まれた古い鉄の箱が隠されていた。中には、湿り気を帯びた茶封筒の束が眠っていた。
江戸が最初の資料を開くと、その目は驚愕に見開かれた。それは単なる製材業の書類ではなかった。杉沢村の住民たちの名簿であり、血液型、肌の質感、そして「収穫日」までもが詳細に記されていたのだ。最後のページには、一枚の古い写真が挟まっていた。血に染まった斧を持つ父が、杉沢の門の前で、手を縛られ泣き叫ぶ母を抱きしめている姿だった。
写真の裏には、父の几帳面な筆跡でこう記されていた。
「真の美には、純粋な犠牲が必要だ。江戸こそが、私の最後のキャンバスである」




