第三章:山の項に吹く吐息
#ミステリー #杉沢村 #都市伝説 #創作
江戸は息を切らした。先ほどまで不気味に感じていた車内が、今や自分を守る最後の砦のように思えた。しかし、鼻を突くガソリンの臭いが漏れ出し始める。ボンネットの下から、黒く粘り気のある液体が、ひび割れたアスファルトの上を悪魔の舌のように這い出してきた。
このまま中にいれば、焼き殺されるか、窒息するかのどちらかだ。
激しく震える手で、江戸は予備の懐中電灯と母のスケッチブックを掴んだ。車のドアを押し開ける。……ギィィィ。錆びついた蝶番の音が青森の森の静寂を切り裂いた。それは、拷問を受ける女の悲鳴のようにも聞こえた。
足が地面に触れた瞬間、不自然な冷気が骨髄まで一気に駆け上がった。靴の下の土は柔らかすぎた――まるで腐敗した肉の山を踏みしめているかのような、嫌な感触だ。
江戸は後ろの崩れた鳥居の方へライトを向けた。空っぽだ。鳥居は消えていた。まるでこの森が、出口を飲み込み、彼を虚無の空間に閉じ込めたかのようだった。
「提灯の明かりを追ってはならない」母の警告の囁きが頭の中で反響する。
しかし目の前では、黄色い提灯が激しく揺れ動いていた。パキッ! 耳元で枝が折れる音がした。江戸は振り向き、茂みにライトを向けた。そこには巨大な指のようにうごめく木々の影があるだけだった。
そして、彼は「それ」を感じた。
項に触れる、生温かい吐息。生臭い血の匂いと、鼻を刺す油絵具の香り。それは、あの惨劇が起きる前の母のアトリエの匂いそのものだった。
江戸は凍りついた。振り向く勇気はなかったが、視界の端に何かが映った。露に濡れて光るボンネットの表面に、影が反射していた。一人の男が、彼のすぐ後ろに立っている。男は巨大な薪割り斧を手にし、顔は影に覆われていたが、その立ち姿……江戸には見覚えがあった。それは、家の裏庭で木を伐採していた時の父の姿そのものだった。
「……江戸……」掠れた、重く、歪んだ声が彼の名を呼んだ。後ろの男の口からではなく、周囲の木々そのものから発せられているかのようだった。
江戸は走った。もはや母の警告など構っていられなかった。茂みをかき分け、車から、そして父の影から遠ざかろうと必死に駆けた。しかし、走れば走るほど、周囲の木々が移動し、道を塞ぎ、彼を杉沢村の深淵へと誘っていく。
突如、足元を何かに絡め取られた。江戸は前のめりに倒れ込んだ。自分を捕らえたものが何なのか、ライトを下に向けた瞬間、彼の心臓は止まりかけた。
木の根ではない。彼の足に巻き付いていたのは、地面から生え出した長い黒髪の束だった。そして、その髪の隙間から、濁った人間の目が開き、彼をじっと見つめていた。




