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第92話 また、誰かが来る

数年が過ぎた。私の体はもう半分、水になっていた。けれど、見た目はほとんど変わらなかった。年齢さえ、止まったままだった。


ある日、里穂が私の小屋に一冊の雑誌を持ってきた。


「美咲さん、東京でこんな記事が出ているそうですよ」


旅行雑誌の、地方特集だった。「秘境の山、御霊山」と、見出しがある。私はページをめくった。写真があった。御霊山の登山道。霧の中の巨木。澄んだ沢の水。そして、水守村の集落の遠景。記事の中ほどにある段落があった。


『途中、麓の小さな村で、不思議な体験をしました。村の井戸の傍で、和服姿の若い女性が、私たちにお茶を振る舞ってくれたのです。彼女は地元の人なのでしょうか。とても綺麗で、不思議な雰囲気の方で、私たちに、優しく微笑みながら、こう言いました。「気をつけて」と。その三文字がなぜか忘れられず、その後、私はもう一度、この山に登りたいと思っています。次は彼女と、もっとお話ができたら——』


私は雑誌を閉じた。ふと表紙の隅に別の特集の小さな見出しが目に入った。


『水と眠る町・岡上——百五十年続く田辺家の伝承』


岡上、と田辺。私はその地名と人名をしばらく見つめた。校正者の癖で別の場所の、別の系譜のことを頭の中で整理してみる。


——同じ系譜の、別の場所。


祖母の手帳の余白に書かれていた、あの一文。私はふと雑誌を傍に置いた。今は読む気にはならなかった。けれど、いつか誰かがその特集を読んで別の道を見つけるのかもしれない。私たちとは別の。里穂が私の方を見て、ふっと微笑んだ。


「美咲さん、また誰かが来そうですね」


私は頷いた。


「うん。来るね」


里穂が私の手を両手で包んだ。


「私たち、見守ってますからね」


私は雑誌を棚の上に置いた。


夕方の井戸の水音を聴きながら、ふと自分の指輪のことを思い出した。智樹といつか結婚しようと話していた、その指輪は東京のマンションの引き出しに置いたままだった。もう、それを取りに戻ることは、なかった。


——智樹はもう、ここにいる。


私が井戸の傍にいる限り、智樹も、私の傍にいる。それで十分だった。

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