第91話 驚けない朝
冬が来た。水守村の冬は東京よりずっと静かだった。井戸の水面に薄氷が張ることはなかった。「水神様の水は凍らないんです」と、里穂が教えてくれた。
ある朝、村の男が井戸の傍で私を呼んだ。
「美咲さん、お山でまた一人、行方が知れなくなったようです」
雪山登山者だった。単独行の、中年の男性。長野県警の捜索が三日で打ち切られた、という記事を里穂が新聞の切れ端で見せてくれた。「事件性は認められず」。読み慣れた、あの一文。
私はその記事をしばらく見ていた。
——去年の私なら、この一文を読んで何か感じたはずだ。
胸の奥を探ってみた。恐怖も、同情も、罪悪感も、見当たらなかった。ただ、記事の組版がわずかに粗いことだけが気になった。校正者だった頃の癖がいちばん最後まで、いちばん浅いところにまだ残っていた。
——ああ、私はもう、これを恐ろしいと思えないのだ。
その発見に私は驚くべきだった。けれど、驚くことさえ、もう体の奥から起こらなかった。驚きという感情そのものが乾く前に指先から水へ還っていくようだった。
春が来て、また夏が来た。智樹の声を私はもう、思い出そうとしなくなっていた。思い出せないことにすら、悲しみを感じなくなっていた。悲しみを感じなくなった自分を、かつてなら悲しんだはずなのに、その入れ子になった感情さえ、今はもうどこにも見当たらなかった。
里穂だけが時々心配そうに私を見た。
「美咲さん、最近笑うこと増えましたね」
「そう?」
「前は、笑っても、どこか無理してるみたいだったから」
私は自分の頬に触れた。笑っている、という自覚さえなかった。ただ、そこに笑顔があった。




