第90話 八雲島からの便り
秋が深まる頃。
ある朝、村の郵便配達員が私の小屋に来た。
「美咲さん、お手紙、届いてますよ」
私は受け取った。差出人を見た。
『水野 悠』
住所は長崎県、八雲島。私の中で忘れかけていた、ある場所の名前が立ち上がった。
——八雲島。
祖母の手帳の余白で見た、その名前。けれど、思い出したのは、それだけではなかった。東京を発つ前の夜、眠れない布団の中で開いた、あのオカルト掲示板。八雲島で人が消え続けているという、半信半疑で読み流した、あの噂。
あの夜はただの怪談だと思っていた。その島が今、水野悠という確かな名前と一通の手紙になって、私の手の中にある。あの噂は本当だったのだ。
私は小屋に戻り、手紙を開いた。中の便箋は薄い和紙だった。整った、女性の文字。
『相沢美咲さま
はじめまして、お手紙差し上げます。私は八雲島の、水野悠と申します。私の祖父、水野久遠は生前、御霊山の水見の家系の方々と、長く、文通をなさっていました。私の祖父からの手紙は、相沢美智子さま——あなたのお祖母様——の元へ、届いていたはずです。
私の祖父は、もともと島の人間ではありませんでした。対岸の津見港で、代々続く医院の医師をしておりました。それが、海の向こうの八雲島で人が消え続けていることを知り、一人で調べ始めたのです。失われた人々を、せめて記録に残そうとして。けれど、調べるうちに、祖父自身が島に魅入られ、ある夏、渡ったきり戻りませんでした。私が生まれるより前のことです。顔も、声も、私は知りません。残された記録と、わずかな伝聞だけで、祖父のことを知っています。
祖父は、こう書き残していました。語り継がれなかった死は、本当の死になる、と。だから記録するのだ、と。けれど、いまの私には、わかるのです。記録するということは、弔いであると同時に、次の誰かを、その場所へ呼び寄せることでもある、と。祖父の遺したノートを読むほど、私自身の指先が、夜ごと、濡れていきます。
そして今、私が八雲島で、祖父の遺した役目を引き継いでおります。美咲さま。最近、八雲島の海でも、似たような時が近づいているのを感じます。古い海神様が静かに目を覚まされている。次の継承の用意を、始めなければならない、とわかっております。
御霊山の水見様には、これまでも、これからも、お世話になることが、あるかもしれません。
私の祖父と、あなたのお祖母様は、長い、長い文通の中で、互いの孤独を慰め合っていた、と聞いております。私たちも、もし、ご都合よろしければ、そのような交流を続けさせていただけないでしょうか。ご返信、お待ちしております。水野 悠』
私は手紙をしばらく握っていた。
——同じ系譜の、別の場所。
祖母が書いていた、その一文がいま、はっきりとよみがえった。私は文机を出した。和紙を広げた。墨を磨った。
『水野悠さま
はじめまして、お手紙、ありがとうございました』そう、書き始めた。私の指先からわずかに透明な液体が和紙の上に落ちた。文字をぼやけさせた。私はそれを拭わなかった。代わりにその滲んだ文字の上にもう一度同じ文字を重ねた。
『私の祖母も、悠さまのお祖父様からのお手紙を、楽しみにしておりました』
『これからは、私たちが互いの孤独を慰め合いましょう』
手紙を書き終わって、封筒に入れた。封をしながら、私は小屋の窓から井戸の方向を見た。
——智樹がまだ井戸の中にいる。
——美樹さんが健ちゃんといる。
——お祖母ちゃんもいる。
私はひとりではない。八雲島にも、ひとりいる。岡上町には田辺家の、別のひとりがいる、らしい。私たちは皆、別々の場所でそれぞれの水を見守っている。そのことがなぜか胸を温めた。




