第89話 もう、鈴は鳴らさない
夏が過ぎた。秋が来た。私は水見の井戸の傍の、小さな小屋に移り住んだ。歴代の水見たちが暮らしていた、その小屋。床は磨かれていた。台所は必要最小限。窓は井戸の方を向いていた。毎朝、私は井戸に手を合わせた。
毎夕、私は井戸の縁に座って、水音を聴いた。時々、誰かの声が聞こえる気がした。智樹の声。結衣の声。山田香織さんの声。佐々木健一の声。四十八人の作業員たちの声。歴代の水見たちの声。それらの声をもう私は怖いとは思わなかった。
私の中でいつも誰かが傍にいた。里穂は毎日、私の小屋に来てくれた。
「美咲さん、ご飯、食べました?」
「うん。ハツさんが届けてくれた」
「祖父母も、心配しちゃってて」
「うん。ありがとう」
「美咲さん、肌、もうほとんど村の人と同じ感じになりましたね」
私は自分の手の甲を見た。確かに肌が変わっていた。色は白いまま。けれど、表面にしっとりとした湿気がいつも漂っていた。指先で触れると自分の肌がひんやりと感じられた。
——水見の体。
私の体は徐々に水になっていく。里穂が私の頬に手を当てた。
「美咲さん、寂しくないですか」
「ううん。寂しくないよ」
「東京に戻りたい、と思ったり、しません?」
私は首を横に振った。
「思わない。ここが私の場所だから」
里穂は微笑んで頷いた。里穂が帰った後、私は小屋の中でひとり座っていた。ふと首に何かかかっていることを思い出した。祖母の鈴。あの夏、トンネルの中で私を一度だけ守ってくれた鈴。私はそれを首から外した。掌の上に置いた。
ちりんと振らずにただ見つめた。鈴はもう何の力も持っていない。けれど、捨てる気はなかった。私はそれを小屋の棚の上に丁寧に置いた。次にここに来る人がその意味を知らないまま、見つけるだろう。
そして、いつかその人も、必要な時にこれを振るのかもしれない。
——けれど、本当に振る日が来るのだろうか。
その問いはその時の私には、まだぼんやりとした、形のないものだった。私はそれ以上は考えずに棚の上の鈴から目を逸らした。それでいいと思った。それでいいのだと。




