↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
90/94

第89話 もう、鈴は鳴らさない

夏が過ぎた。秋が来た。私は水見の井戸の傍の、小さな小屋に移り住んだ。歴代の水見たちが暮らしていた、その小屋。床は磨かれていた。台所は必要最小限。窓は井戸の方を向いていた。毎朝、私は井戸に手を合わせた。


毎夕、私は井戸の縁に座って、水音を聴いた。時々、誰かの声が聞こえる気がした。智樹の声。結衣の声。山田香織さんの声。佐々木健一の声。四十八人の作業員たちの声。歴代の水見たちの声。それらの声をもう私は怖いとは思わなかった。


私の中でいつも誰かが傍にいた。里穂は毎日、私の小屋に来てくれた。


「美咲さん、ご飯、食べました?」


「うん。ハツさんが届けてくれた」


「祖父母も、心配しちゃってて」


「うん。ありがとう」


「美咲さん、肌、もうほとんど村の人と同じ感じになりましたね」


私は自分の手の甲を見た。確かに肌が変わっていた。色は白いまま。けれど、表面にしっとりとした湿気がいつも漂っていた。指先で触れると自分の肌がひんやりと感じられた。


——水見の体。


私の体は徐々に水になっていく。里穂が私の頬に手を当てた。


「美咲さん、寂しくないですか」


「ううん。寂しくないよ」


「東京に戻りたい、と思ったり、しません?」


私は首を横に振った。


「思わない。ここが私の場所だから」


里穂は微笑んで頷いた。里穂が帰った後、私は小屋の中でひとり座っていた。ふと首に何かかかっていることを思い出した。祖母の鈴。あの夏、トンネルの中で私を一度だけ守ってくれた鈴。私はそれを首から外した。掌の上に置いた。


ちりんと振らずにただ見つめた。鈴はもう何の力も持っていない。けれど、捨てる気はなかった。私はそれを小屋の棚の上に丁寧に置いた。次にここに来る人がその意味を知らないまま、見つけるだろう。


そして、いつかその人も、必要な時にこれを振るのかもしれない。


——けれど、本当に振る日が来るのだろうか。


その問いはその時の私には、まだぼんやりとした、形のないものだった。私はそれ以上は考えずに棚の上の鈴から目を逸らした。それでいいと思った。それでいいのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。