第93話 気をつけて
その秋、雑誌の記事を読んだ若い女性が、御霊山に登りに来た。二人連れだった。一人は私を覚えていた、雑誌の記事を書いた、若い記者の女性。もう一人は彼女の、恋人らしき男性。私は井戸の傍で、お茶を淹れていた。
二人は登山道を降りてきて、村に立ち寄った。私の、井戸の傍を通った。
「あ、こんにちは」と、女性が私に声をかけた。
「あの時の方ですよね」
「ええ」と、私は微笑んだ。
「お久しぶりです」
「やっぱり、お会いできて、嬉しいです。前に、本当に、印象的で——」
「お茶、いかがですか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
私は二人を、井戸の縁のベンチに座らせた。二つの湯呑みに、お茶を淹れて、渡した。男性は丁寧にお礼を言って受け取った。女性は嬉しそうに、お茶を飲んだ。そして、女性は井戸の中を覗き込んだ。
「この井戸、すごく古いんですね」
「ええ。村で、いちばん古い井戸です」
「水も、飲めるんですか?」
「もちろん」
私は傍らの柄杓で、井戸の底から水を汲み上げた。その時、私の指先がふと小屋の方を指していた。
——棚の上の鈴。
祖母の鈴がまだあそこに置いてある。何の力も持っていない、と私は思っていた。けれど、本当に、そうだろうか。あれは子供の頃の私を、一度、水から引き戻した。トンネルの中の私も一度守った。三代に一度の、緊急の時にしか使ってはならない力。
いま、もし、私があの鈴を取りに行って、この女性の首にかけてやれば。そして、低い声で、「この水を、飲んではいけない」と、彼女に、はっきり告げれば。
——この子は、助かるかもしれない。
掟は村人が警告を口にすることを許さない。けれど、私はもう半分は水でも、もとは村の外から来た人間だ。祖母が私に「気をつけなさい、水には」と言えたように。鈴を握りしめれば、私も一度くらいは、その禁を破れるのかもしれない。
私は柄杓を持ったまま、ほんの一瞬、動きを止めた。女性が無邪気な顔で、私を見上げていた。湯呑みではなく、柄杓を待っている。彼女の隣で、恋人の男性が井戸を、珍しそうに覗き込んでいる。
——この二人を、見送らずに、いま、追い返せば。
私の中で、何かがほんの一瞬揺れた。それはまだ私の中に残っていた、いちばん人間に近い部分だった。けれど。
——この子が来てくれれば、またひとり、家族が増える。
別の声がそれを、上から、静かに覆った。冷たくはなかった。むしろ、温かかった。井戸の底から、智樹や、結衣や、祖母が私を見守っている、その温かさと、同じ温度の声。
棚の上の鈴は、そのまま置いておけばいい。それを振るのは、私ではない。いつか、ここに来る、別の誰かが必要な時に振ればいい。——けれど、その「いつか」は、たぶん、永遠に来ない。
鈴を握りしめ、この子に「飲んではいけない」と告げられる時は、いましかなかった。分かっていた。分かっていて、私の手は、柄杓を握ったまま動かなかった。
「どうぞ」
私は柄杓を、女性に差し出した。その瞬間、小屋の方で、棚の上の鈴がちりん、と、ごく小さく音を立てた気がした。風もないのに。
——振れば、まだ間に合う。
いま、立ち上がって、小屋に駆け込み、あの鈴を握りしめて、この子の手から、柄杓を叩き落とせば。それでも、私の手は動かなかった。
かつて、私は鈴に守られる側にいた。子供の頃、川で、祖母が鈴を鳴らして私を引き戻してくれた。トンネルの底でも、私は自分のために、その鈴を振った。私はずっと、鈴を振る側、振られる側の人間だった。いまは違う。私は、鈴を棚に置いたまま、誰かが水に引かれていくのを、優しく微笑んで見送る側にいる。祖母が健一を見送ったように。歴代の水見が、そうしてきたように。
その長い列の、いちばん新しい一人に、私はなっていた。鈴の音はもう、自分を責める音ですらなかった。ただ、遠い、懐かしい、子守唄の断片のように、聞こえただけだった。——それが、いちばん恐ろしいことだと、もう思いさえしないことこそが。
女性は柄杓を受け取り、一口飲んだ。飲み下した途端、彼女の目が見開かれた。
「……おいしい」
そう、口に出した。私は微笑んだ。
「気に入ってもらえて、嬉しいです」
男性が彼女から柄杓を受け取り、自分も飲んだ。
「ほんとだ。おいしい」
「気のせい、じゃ、ないですよね」と、女性が嬉しそうに笑った。
「気のせい、ではありませんよ」と、私は優しく答えた。
二人はその日、村に一泊した。里穂の家で、夕食をご馳走になった。村人たちは皆、温かく、二人を迎えた。
翌朝、二人が村を後にする時、私は井戸の傍まで見送りに出た。
「美咲さん、また来ますね」と、女性が言った。
「ええ。お待ちしています」
二人は村の入り口に向かって歩き始めた。私はその背中に向かって、優しく声をかけた。
「気をつけて」
女性が振り返った。笑顔で頷いた。
——気をつけて。
子供の頃、祖母が私によく言った言葉。そして、智樹が東京で、最後に、私に言った言葉。私はいま、初めて、その三文字を、自分の口で、誰かに向けて言った。かつて、その言葉は私を守る言葉だった。祖母はそれを言いながら、鈴を鳴らしてくれた。
いま、私は同じ言葉を言いながら、鈴を鳴らさなかった。棚の上に置いたまま、来た。
「気をつけて」は、もう守る言葉ではなかった。それは招く言葉だった。あの子はきっと、また来る。「気をつけて」と言われたことを、優しさだと思って。その三文字の、本当の意味を、知らないまま。
あの子にも、東京に、帰りを待つ人がいるのだろう。その人たちは、いつか、あの子が戻らないことに気づき、それでも待ち続けるのだろう。何年も。何年も。かつて、ひとりの登山者の家族が、そうしたように。
——私は祖母が、私を守ったのとは、逆のことをしたのだ。
そう気づいても、もう胸は痛まなかった。二人の背中が村の入り口で、小さくなっていった。水脈の奥で、ぽちゃん、と、水音が答えた。私は井戸の前に戻った。両手を合わせて、深く頭を下げた。頭を上げた時、井戸の水面に、自分の顔が映っていた。
水面の中の私はかすかに笑っていた。それから、私の輪郭がゆっくりと水面に溶け始めた。頬が滲み、目元がぼやけ、髪が水の流れに、ほどけていく。人の形が少しずつ、失われ、ただの、透明な、揺らぎに、なっていく。
——きれい。
私はそう思った。かつて、結衣の、水になった姿を見て、同じことを思った。あの時はそう思った自分に、背筋を凍らせた。親友の笑い方ひとつに、胸を刺し貫かれて、泣きたくなった。あの頃の私には、まだ戦慄する心が、悼む心が残っていた。けれど、いま。
自分が溶けていく姿を、きれいだと思っても、もう何も起きなかった。あの、背筋の凍る感覚は、もうどこにもなかった。
それは失ったのではない。溶けたのだ。痣が肌が、声が記憶が、ひとつずつ溶けていったのと、同じように。私を、私たらしめていた、最後の、戦慄する心も、いつのまにか、水に溶けて、井戸の底へ流れていった。
けれど、溶けていく指先が、消える直前、ほんの一瞬だけ、宙をかすかに掻いた。何かを掴もうとするように。何を掴もうとしたのか、私自身、もう、わからなかった。——鈴、だったのかもしれない。智樹の名前、だったのかもしれない。答えの出ないまま、その指の動きも、静かに水面に溶けて、消えた。
そして私はそのことに、何の痛みも感じていなかった。痛みを感じる、その部分さえ、もう溶けてしまっていたから。
——ああ。これで、ようやく、ぜんぶ、終わったんだ。
私はそれを、しばらく見つめていた。そして、もう誰もいない、井戸の縁に座った。水脈の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がした。




