第8話 連れて行きたくない人
写真を裏返した。何も書いていない。日付も、名前も。ただ、薄いボールペンの跡だけが残っている。何か書いてあったものが、消えかけている。
「ゆ」
そこまで読める。その後に「い」のような曲線。
ゆい?
口に出した瞬間、また、頭の中で何かが霧散した。口の中に、わずかに、川の匂いがした気がした。
私は、写真を裏返したまま、机の引き出しに仕舞った。これは、後でゆっくり考えよう。
代わりに、クローゼットを開けた。祖母の遺品の段ボール箱が、奥にある。母から「あんたが整理しなさい」と言われて引き取った後、整理しきれずに二年も放置していたものだった。
蓋を開ける。中に、ひと回り小さな桐の箱があった。記憶の中の祖母の鏡台に、いつも乗っていた箱。中身を取り出す。
——古いガラスの瓶だった。
四角い、両手で握れるくらいの大きさ。透明な液体が、半分ほど入っている。栓には、和紙が巻かれて、紐で結ばれていた。その和紙に、祖母の字で、こう書いてあった。
『美咲へ。山に入る時は、必ず一口、飲みなさい。お祖母ちゃんが守ってあげるから』
私は、しばらく、瓶を見つめていた。祖母の字を、覚えている。——「お祖母ちゃんが守るから」。子供の頃、川で水に引かれそうになった時、祖母が言った言葉と、同じだった。
胸が熱くなった。亡くなる前から、祖母は、この日のために、これを残してくれていたのだ。
私は瓶を、慎重に、リュックに詰めた。それから、智樹に電話をかけた。
コール三回で出てくれた。
「智樹、ごめんね、朝早くから」
「ううん、起きてた。どうしたの?」
「来週、少し留守にする。祖母の家、整理してくる。中部の方」
「一人で大丈夫? 俺も付き合おうか?」
「ううん、平気。一人で行きたい。お祖母ちゃんとの、最後の時間にしたいから」
そう答えながら、私は、もう一つの本音を、自分でも、少し意外に思っていた。
——智樹を、あそこには、連れて行きたくない。
祖母の家は、私だけの場所だった。幼い夏の、誰とも分け合わなかった時間。智樹は私のいちばん大切な人だけれど、だからこそ、あの場所には、踏み込ませたくない。智樹の優しさが、あの家の空気に触れて、ありふれたものに変わってしまうのが、なぜか、怖かった。
大切なものほど、しまっておきたい。誰の目にも触れさせず、自分だけのものとして。——昔から、私には、そういうところがあった。結衣に対しても、たぶん、そうだった。
その考えに、自分で、少し、ぞっとした。
智樹は、少し沈黙してから、優しく言った。
「そうか。気をつけてね。何かあったら、すぐ電話して」
「うん。ありがとう」
電話を切った。リュックの中、桐箱に入った祖母の瓶が、かすかに重く感じられた。智樹の「気をつけてね」が、まだ耳に残っていた。
——気をつけて。
子供の頃、祖母も、よく、同じことを言った。「美咲、気をつけなさい。水には」と。
なぜ、いま、二人の声が、重なって聞こえるのだろう。




