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第9話 出発前夜

夜九時、玄関のインターホンが、鳴った。


「俺だけど」と、智樹の声が、スピーカーから、聞こえた。


「智樹?」


「うん。差し入れ、ちょっとだけ。少し上がっていい?」


私は、玄関の扉を開けた。


智樹は、紙袋を、両手に、持っていた。


「これ、明日の弁当。電車、長いだろ」


「うん」


「中、ラップで巻いたおにぎりと卵焼き。うちの母さんのレシピ」


「ありがとう」


「ちょっと、上がってもいいか?」


「うん」


智樹を、リビングに、通した。ソファの上に、半分、口を開けた旅行鞄が、置かれていた。中には、夏物の服と、本と、化粧道具。


智樹は、その鞄を、ちらりと、見た。それから、私の顔に、視線を、戻した。


「整理、何日くらいで、終わりそう?」


「一週間か、十日くらい、かな。お祖母ちゃんの家、思ったより、たくさん、物がありそうで」


「無理するなよ」


「うん」


智樹は、私の隣に、座った。彼の手が、自然に、私の手の上に、重なった。骨ばっていて、わずかに、温かい。彼の体温は、いつも、私より、少しだけ、高かった。


しばらく、二人とも、何も、言わなかった。


リビングの隅に、テーブルがあった。その上に、薄い桐の箱が、開けて、置かれていた。


中には、ガラスの瓶。


智樹が、それに、気づいた。


「これ、何?」


「お祖母ちゃんが、私に、残してくれてた、瓶」


「水?」


「うん。お守りの水、らしい。山に入る時に、一口、飲みなさい、って書いてある」


智樹は、立ち上がり、その瓶を、手に取った。蓋に巻かれた、和紙の文字を、読んだ。


「『お祖母ちゃんが守ってあげるから』」と、彼は、声に出して、読んだ。「やさしい、お祖母様、だな」


「うん」


「美咲、こういうの、ちゃんと、信じてる方?」


「ううん。あんまり。でも、お祖母ちゃんが、残してくれたから、持っていく」


「うん。それで、いいよ」


智樹は、瓶を、桐の箱に、丁寧に、戻した。


それから、自分のリュックから、小さな、紙包みを、出した。


「うちの母さんが神社でもらってきた。旅行守り、ってやつ。一緒に持っていけ」


「ありがとう。お母さんに、ちゃんと、お礼、言わなきゃ」


「いいよ、別に」


智樹は、立ち上がった。玄関へ、向かった。


「あんまり長居しても、お前、明日早いだろ」


「うん。新宿、七時の電車だから」


「気をつけて、行ってこいよ」


玄関で、智樹は、私の顔を、しばらく、見つめた。


「美咲」


「うん?」


「戻ってきたら、結婚の話、ちゃんとしような」


「うん」


「俺、ずっと待ってるから」


智樹は、私の額に、軽く口づけした。


「気をつけて」


「気をつけて、行ってきます」


智樹は、笑顔で、頷いた。玄関の扉を、閉めた。


私は、しばらく、扉の前に、立っていた。


それから、リビングに、戻り、桐の箱の蓋を、閉めた。


旅行守りを、瓶の、横に、置いた。


明日の朝、私は、ここを、発つ。


戻る時には、これらの、すべてが、今と、同じ場所に、あるはずだった。

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