第86話 最後のメール
その日の午後、私は祖母の家——もう、私の家、と言うべき家——の縁側に座って、携帯電話を開いた。電波はこの日に限って、しっかりと立っていた。私はメールの新規作成を開き、文芸編集部の、黒田の宛先を入力した。
校正者の癖で書き出しは簡潔に業務的に。冗長な感情表現は削る。誤字脱字は見直す。送信前の最終確認も、忘れない。
『黒田副編集長
長らくお世話になりました。突然のことで、申し訳ありません。私は祖母の家のあった水守村で、これからの生活を続けることに致しました。出版社での仕事は、今日付けで、退職させていただきたく、お願い申し上げます。
私物はすべて処分してください。引き継ぎは書面で送ります。大平建設の回顧録の件、第七章の削除指示は、社長親族のご意向通り、削除でお願いします。ご迷惑をおかけいたしますが、ご了承ください。相沢 美咲』私はその文面を、しばらく見つめた。
校正者の目で最後の段落をもう一度読んだ。
——「第七章の削除指示は社長親族のご意向通り、削除でお願いします」。
その一文を書いた瞬間、自分の中で何の感情も波立たなかったことに、私はわずかに驚いた。東京で初めて、その削除指示を読んだ時のことを、思い出した。私は激怒した。四十八人の犠牲をなかったことにするなんて。歴史を消すなんて。許せない、と。
今はそう思わない。
——四十八人はもう消えていない。
水脈の中で生きている。健一さんも、山田武雄さんも、山田香織さんも、結衣も、そして、智樹も。彼らは水神の優しさの中にいる。ならば、紙の上の記録など、消えてもいい。水がすべてを記憶しているから。
私はもう一度、文面を読み直した。今度は書き直しをしない、と決めて。その時、画面の上にわずかな滲みが広がり始めた。私の指先からぽつと透明な液体が一滴垂れた。液体は画面の文字の上に落ちた。
「相沢」の文字の、最初の一画から墨が水に滲むようにゆっくりと文字がぼやけ始めた。
東京での最初の夜、ペットボトルの水面に知らない女性の顔が映った、あの夜からずっと私の周りで起き続けていた、文字の滲み。子守唄のようにそれは戻ってきていた。けれど、東京の時のように目を擦ったり、画面を拭ったり、しなかった。
私は滲んでいく文字をただ見ていた。そして、送信ボタンを押した。数秒後、画面に送信完了の表示が出た。私は携帯電話を置いた。
——東京の私の人生はこれで終わった。
そう思っても、もう何も痛まなかった。私はもう、ここの人だった。




