第83話 最後の口づけ
「智樹」
私は彼の顔を両手で包んだ。
「うん」
「愛してる」
「俺も、愛してる」
智樹は笑顔だった。村人たちの歌が、まだ続いていた。私は彼に口づけした。長く、ゆっくりと。智樹の唇の温かさを、覚えておきたかった。
——これが、生きている、人間の温もりの、最後。
口づけは別れの所作だった。同時に、所有の所作でもあった。智樹は私のものだった。智樹はこれから、私のものになる。水脈の中で、智樹は結衣にも、他の女たちにも奪われない。私が、私の手で、水神に捧げるのだ。誰にも触れさせず、私が。
——大切なものほど、しまっておきたい。誰の目にも触れさせず、自分だけのものとして。
東京を発つ朝、自分の中に見つけて、ぞっとした、あの考え。あれは村が植え付けたものでは、なかった。あれはずっと前から、私の中にあった。結衣を、誰にも渡したくないと思った、あの夏から。たぶん、もっと、ずっと前から。
村は私を変えたのではない。村は私の、いちばん深いところにあったものを、すくい上げて、名前をつけてくれただけだ。
それでも、私の手は止まらなかった。捧げた者は捧げた者のものになる。
——お祖母ちゃんが、私を、瓶の水で紹介してくれたように。
——大平太一郎が、四十八人を、自分の代わりに差し出したように。
——美樹さんが、健ちゃんに、もうすぐ会えるように。
すべての、巫女たちの、捧げの所作の、最後の一つを、私はいま行うのだ。ゆっくりと唇を離した。私の指先が智樹の右手首の、絆創膏の上を撫でた。その下に、まだ二文字が刻まれていた。「氷遠」。結衣が彼の肌に刻んでいった印。
智樹はもう、結衣に印をつけられている。私が何もしなければ、結衣の手がもう一度来る。彼を、私から奪うために。
——だから、私がやる。智樹を結衣の手から守るため。智樹を優しい水神様のもとへ送るため。
そう、自分に言い聞かせて、その理屈の底に、もう一つ、別の声が沈んでいるのを、私は知らないふりをした。
——智樹を、永遠に、私だけのものにするために。
それらが私の中で、ひとつに溶け合っていた。どれが本当の願いなのか、もう、自分でも見分けがつかなかった。
「智樹」
「うん」
「ごめんね」
「え?」
「ごめんね」
智樹が私の表情を見て、首を傾げた。彼の目に、初めて、不安がよぎった。
「美咲、何が——」
「あなたを、いちばん愛してる人が、私なの」
「うん。そう、だな」
「だから、私がする」
「美咲?」
「他の、誰にも、させない」
智樹の顔に、混乱が広がった。私の右手が彼の胸に当てられた。
——これは、最も、優しい、愛し方。
私の中で、誰かが囁いた。お祖母ちゃんの声、だったかもしれない。あるいはもっと古い、女たちの声。
「智樹」
「うん」
「私はこれから、ここに、ずっといるの」
「美咲?」
「あなたも、一緒に、ここにいて」
私は彼の胸を、ゆっくりと押した。智樹の足が井戸の縁を踏んだ。その時だった。私の視界の隅で、里穂が動いた。
半円の列から、一歩、前に踏み出した。右手を、智樹の方へ伸ばしかけた。口が開いた。何かを叫ぼうとした。「逃げて」か、「待って」か、「だめ」か——とにかく、智樹を止める言葉を。けれど、その口から、声は出なかった。
里穂の喉がひくり、と震えた。言葉が喉の途中で堰き止められたように。この村の人間は、警告を、直接、口にできない。口にすれば、それが現実になる。掟が里穂の声を奪っていた。
伸ばしかけた右手も、宙で止まった。まるで、見えない水が彼女の手首を掴んで、引き戻すように。里穂の指先が智樹に届く、その手前で、わなわなと震えた。
ほんの、一歩。あと、ほんの一歩、踏み込めば。あと、ほんの一言、声を絞り出せば。智樹は助かったかもしれなかった。里穂にはそれができた。できる場所に、彼女は立っていた。けれど、里穂は踏み込めなかった。声も、出せなかった。
伸ばした手が力なく落ちた。彼女の膝がわずかに折れた。そして、里穂は智樹の頬から、自分の足元へ、視線を落とした。それはほんの、二秒ほどの出来事だった。
里穂はすぐに顔を上げ直した。両手を、合わせる形に戻した。そして、ほかの村人たちと、同じ姿勢に戻った。頬を、涙が伝っていた。村人たちは誰一人として、目を逸らさなかった。皆、低く頭を垂れたまま、けれど、しっかりと、儀式の進行を見守っていた。
里穂だけが抗おうとして、抗えなかった。
——彼女が、止めようとして、止められなかったことに気づいたのは、私だけだった。
そして、私は知った。抵抗はできたのだ。誰かがほんの一歩踏み込んで、ほんの一言叫べば、この円環は断ち切れたのかもしれない。ただ、七百年の間、誰も、それをしなかった。できなかった。里穂も、祖母も、私も。
その事実が村の優しさの、いちばん深い底だった。
「美咲——」
その時、智樹は初めて、自分の足元を見た。井戸の、暗い、深い、底。その底から、複数の、白い手が優しく、上に伸びてきた。最も上の方の、手の一つに、私は見覚えがあった。
——結衣。
ショートカットの面影の女性の、白い指先が智樹の方へ伸びていた。私はその手を見ながら、一瞬、考えた。結衣に、智樹を渡すのか。私が渡すのか。
——いいえ。結衣にも、渡さない。
そう思った瞬間、私の中で、最後の何かが焼き切れた。
あの手に、渡してたまるか。水神にでも、結衣にでも、誰にでも——智樹を、明け渡すものか。智樹は、私のものだ。生きていても、死んでいても、水になっても。私の。ずっと、私だけの。
その瞬間、私はもう泣いていなかった。怖くもなかった。ためらいも、罪悪感も、悲しみも、すうっと引いていった。代わりに胸の奥から、温かいものが満ちてきた。それは歓びに似ていた。
——ようやく、私のものになる。
七年前、結衣を奪われた。あの、はらわたを掻きむしるような喪失を、もう二度と味わわなくていい。今度こそ私は、いちばん大切なものを、誰の手も届かない場所へしまい込む。私の手で。私だけの手で。
私は彼の胸を、もう一度押した。
押した私の右手のひらに、智樹の心臓の鼓動が伝わってきた。ドク、ドク、と、熱い塊が脈打っていた。生きている人間の、体温。汗で、わずかに湿った、シャツの感触。それが私の——もう、半分、水になって、冷たくなった——手のひらに、吸い付くように残った。
その温度の差が、私の手に、彼の生を灼きつけた。私がいま、消そうとしているものの、正体を。智樹が私の方を見た。その目に、最後の、混乱と、悲しみと、それから、何かを悟ったような色がよぎった。
——昨夜、彼が感じた不安は、正しかった。沢にいた女も、村人たちの優しさも、ぜんぶ本物だった。そして、「気のせいだ」と言った私の言葉だけが、嘘だった。
それを、智樹は落ちていく、その一瞬に理解したのだと思う。彼の唇がわずかに動いた。けれど、言葉にはならなかった。何かを言おうとして、言わずに終わった。ただ、その目だけが私に語っていた。
——お前が、こういうことをする人だとは、思わなかった。
責める色はなかった。怒りも、憎しみも。あったのはただ深い、静かな驚きだけ。長く連れ添うつもりだった相手の、知らなかった一面を、最後の最後に見てしまった者の、驚き。憎まれたほうが、まだ楽だった。
「美咲——」
智樹の体が井戸の中へ、ゆっくりと傾いた。それから、彼は井戸の底へ落ちていった。水音はなかった。代わりに、無数の白い手が、彼を、優しく受け止めた。そして、その時——。
智樹の右手首から、白い絆創膏がぬるり、と剥がれていった。落ちる速度に、わずかに遅れて。絆創膏が剥がれた、その下の傷が井戸の闇の中に、一瞬、はっきりと浮かんだ。血と水が境界線を保ったまま、絡み合った、二文字。
——『氷遠』。
その二文字が底へと吸い込まれる、智樹の手首と一緒に、わずかに光った。それから、水脈の闇に吸い込まれて、消えた。歌が止まった。村人たちが静かに頭を垂れた。膝から力が抜けて、私はその場に崩れた。ふと、井戸の底から、智樹の声が聞こえた気がした。
「美咲」
——おかえり。
その声はもう悲しんでいなかった。




