第82話 井戸へ向かう列
村人たちの列の先頭で私と智樹が歩き始めた。智樹はまだ混乱していた。
「美咲、これ、何が始まるの?」
「お祭り、最終日」
「みんな、こんなにたくさん?」
「うん。村全体でお祝いするから」
「祝う、って、何を?」
「私たちのことを」
智樹が笑った。
「俺たち? 大袈裟だな」
「うん。でも、嬉しいでしょう」
「うん、嬉しい」
智樹は私を見つめた。その目にわずかに昨日の沢の傍で見た、あの寝起きのような、ぼんやりとした影がよぎった。
「美咲」
「うん」
「俺、昨日、温泉のあとに村の外れの方、ちょっと歩いただろう?」
「うん」
「あの時、誰か、いた気がするんだよな」
私は彼の手を少し強く握った。
——智樹は覚えている。
結衣のことは智樹は忘れていない。誰だかわからないまま、夢の名残のように覚えている。そして、智樹の右手首に巻いた絆創膏の下では、「氷遠」の二文字がまだ刻まれたまま消えていない。私はそれを知っていた。
——右の、手首の、内側。
昨夜、智樹が言った。私が何かを抱え込んで誰にも渡したくない時、左手でとんとんと叩く場所。よりによって、結衣が智樹に印を刻んだのも、同じ、そこだった。
智樹は三年間、私の、その癖を見てきた。私が誰にも渡したくないものを抱える、その仕草を。そして、いま私が誰にも——結衣にさえ——渡したくないと思っているのは、ほかでもない、智樹自身だった。
偶然のはずだった。けれど、この村では偶然など、何一つない気がした。
「気のせいだよ」と、私は穏やかに答えた。
「あの辺、誰もいなかった」
「そう、か」
「うん」
智樹は頷いた。けれど、彼の手の中の私の指先を彼がわずかに揺するように握り返した。
——智樹はもう、ここの水に呼ばれている。
そう思うと、胸の奥が冷たく固まった。結衣が智樹に手を伸ばした。私が押さなければ、結衣がもう一度、彼を取りに来る。次は夢ではない形で。私は首にかけた祖母の鈴に、無意識に手を伸ばしかけた。それから、自分で、自分の手を止めた。
——鈴は、もう力を消耗している。
トンネルで、私は自分のために使った。智樹のためには、もう残っていない。抗うものがない、ということ。守るものがない、ということ。
ならば、私が押さなければ、結衣がもう一度、智樹を取りに来る。今度は確実に、彼の手首から腕、肩、首、そして頭までを絡め取って、引きずり込む。それは優しくない。
私が押せば、智樹は私の手で、水脈の中へ送られる。結衣のものにではなく、私のものとして。
——智樹を、永遠に、私のものにするために。
——そして、智樹を、結衣の、より、ずっと優しい、水神様の優しさの中へ送り出すために。
私たちは村の中心の、水見の井戸に向かった。井戸の前に、村人たちが半円形に並んだ。ハツと、源蔵と、里穂が井戸のすぐ脇に立っていた。そして、村人たちが低い声で、歌を歌い始めた。
「水のなか 眠るのは もっとも 愛されし むすめ」
「水のなか 眠るのは もっとも 愛されし ひと」
「水のなか 眠るのは ご家族の もとへ 還る人」
智樹が私の手を握ったまま、立ち止まった。
「美咲、これ、なに?」
「お祭りの歌」
「いや、これ、なんか、変だよ」
「気のせい、だよ」
智樹はふと、井戸の縁を見た。私と彼は井戸の、ちょうど目の前に立っていた。歌が続いていた。村人たちの、優しい、温かい声。子守唄のような、合唱。私の左手が自然に動いた。
手の甲を、自分の喉の後ろに当てた。それから、ゆっくりと両手を合わせる形に戻した。顕の日に、村人たちと共に、私が自然に覚えた所作。智樹がそれを見た。
「美咲」と、彼がぼんやりと聞いた。
「いま、何、したの?」
「ううん、何も」
「いや、なんか、変な、手の動き、したよ」
「気のせい」
智樹の目の中で、何かがゆっくりと覚醒し始めていた。
——もう、時間がない。
私は彼の両手を、私の手の中に包んだ。そして、彼の頬を、私の唇で撫でた。




