第80話 半分、持たせてくれ
夕食は里穂の家で開かれた。村人のうち、十人ほどが里穂の家に集まっていた。皆、智樹を温かく迎えた。
「初めまして、智樹さん」
「美咲ちゃんの、彼氏さん?」
「お疲れだろう、こっちでゆっくりして」
口々に声がかけられた。智樹は最初は戸惑っていた。けれど、すぐに村人たちの温かさに心をほぐされた。源蔵が自家製の清酒を注いだ。
「明日のお祭りの、前祝いだ」
智樹は酒を勧められるまま、いただいた。
「美咲ちゃん、いい人を見つけたんだね」と、ハツが私の手を撫でた。
「智樹さん、東京で何のお仕事を?」
「出版社の編集者です。美咲と同じ会社で」
「あらまあ、同じご職場ね」
「はい。三年前から」
「結婚はもうお決まり?」
その質問に智樹は少し、頬を染めた。
「いえ、まだ正式には」
「そうなのね。じゃあ、これからね」
「はい」
私は智樹の隣で笑っていた。煮物。漬物。山菜の天ぷら。すべてが温かく、家庭的な味だった。智樹はすっかり、村の人たちに馴染んでいた。
夜が更けるにつれて、智樹は酔い始めていた。私は彼の肩に頭を預けた。
「美咲」
「うん?」
「お前、なんでこんなにいいところ、教えてくれなかったの?」
智樹の声はもう少し、舌がもつれていた。
「いつか、教えようと思ってた」と、私は答えた。
「うん。今度から年に一回ずつ、来ようよ。お祭り、楽しい」
「うん」
智樹はしばらく黙った。それからぽつりと言った。
「美咲」
「なに?」
「俺さ、覚えてる? 三年前、お前がうちの会社に移ってきた、最初の校了の夜」
「……うん」
「お前、徹夜明けでふらふらなのに、最後までゲラを離さなかっただろ。で、俺が『もう大丈夫だ、帰ろう』って言っても、聞かないんだ。そういう時さ、お前、自分でも気づいてないと思うけど、左手の指先で右の手首の内側を、とんとん、って叩く癖があるんだよ。集中してる時。何かを抱え込んで誰にも渡したくない時」
私の指が止まった。
——いま、私はそれをやっていた。
無意識に左手の指先で右の手首をとんとんと叩いていた。智樹に言われるまで自分でも気づかなかった。
「俺、その癖、好きでさ」と、智樹は笑った。
「お前が本気の時の、合図だから。三年間、ずっと見てきた」
智樹は私のことを見ていた。私が自分でも知らない、私のことまで。三年間、ずっと。
「それでさっきから思うんだけど」
智樹はしばらく黙った。それからぽつりと言った。
「俺さ、なんか変なんだ。さっきから」
私は彼の顔を見た。酔いでとろんとした目。けれど、その奥にふと醒めた光があった。
「何が?」
「うまく言えないんだけど」と、智樹は自分の右手首を絆創膏の上からゆっくりと撫でた。
「さっき散歩の時も言っただろ。誰かに見られてる気がするって。あれ、気のせいじゃない気がするんだ。それにあの川のとこにいた女の人も、本当はいた気がする。お前はいない、って言うけど」
私の心臓がひとつ跳ねた。
「それにここの人たち、みんな優しいだろ。優しすぎるくらい。なんか——」
智樹は言葉を探した。
「なんか、俺のこと前から知ってたみたいに、迎えてくれる。初めて会ったのに」
「それにお前も」と、智樹は続けた。
「お前も、なんだか、さっきからその癖、ずっと出てる。よっぽど、何か抱え込んでるんだろ。俺に言えない、何かを」
智樹は言葉を少し詰まらせた。それからゆっくりと続けた。
「お前さ、昔からそうだよな。自分のことはぜんぶ、自分の中にしまい込んで。校了で何日も寝てない時も、体調、最悪の時も、『大丈夫』しか言わない。心配して、踏み込もうとするとふっと笑って、話を逸らす。俺、何度も思ったよ。こいつは俺を信用してないのかな、って」
「そんなこと——」
「いや、違うんだ」と、智樹は首を振った。
「信用してないんじゃない。お前は大事なものほど、誰にも触らせたくないんだ。傷つけられるのが怖くて。だからぜんぶ、自分で抱える。——俺、三年かけて、やっとそれがわかった」
私は彼の横顔を見ていた。
「だからさ」智樹は私の方を向いた。酔った目の、その奥がまっすぐだった。
「もし、いまお前が何か隠してるなら、言ってくれよ。どんなことでも、いい。俺、ちゃんと聞くから。お前の抱えてるもの、半分持たせてくれよ。結婚するって、そういうことだろ」
私は何も言えなかった。
——言える、わけがなかった。
私が抱えているのは明日あなたを井戸に突き落とす、という決意だった。あなたが半分持ちたいと言った、その荷物の正体はあなた自身の死だった。智樹はふっと笑った。酔いの、ゆるんだ、けれどどこか寂しげな笑い方だった。
「変だよな。考えすぎかな」
——気づいて。
私の中で声がした。気づいて、智樹。何かがおかしいって、もうわかってるんでしょう。だったら、明日の朝、起きたら、すぐ、バスに乗って。私の言うことなんか、信じないで。逃げて。けれど、私の口は別の言葉を紡いだ。
「考えすぎ、だよ」
智樹は私の顔をしばらく見つめた。それから私の手を握った。
「うん。お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
——お前がそう言うなら。
その一言が私の胸を刺した。智樹は薄々感じていた。この村のおかしさを。沢にいた女を。村人たちの、出来すぎた優しさを。彼の中で警報は鳴っていた。それでも、彼は留まることを選んだ。
理由はひとつだった。私が「気のせいだ」と言ったから。私を信じたから。智樹は自分の不安よりも、私を選んだのだ。
——だから私は彼を殺せる。
その事実がいちばん残酷だった。彼の信頼が彼をここに縛りつけている。私がもし、「逃げて」と、一言、本気で言えば、智樹はたぶん逃げた。彼の直感は正しかったのだから。けれど、私は言わなかった。
愛している人をその人の信頼ごと井戸の底へ送る。それがこの村の、いちばん優しい殺し方だった。
「うん。今度から年に一回ずつ、来ようよ。お祭り、楽しい」
智樹はもう一度、さっきと同じことを繰り返した。酔いが彼の、束の間の覚醒をまた奥へ沈めていた。私は彼の頬に軽く口づけした。
「智樹、もう遅いね。少し、休もう」




