第79話 右手首に刻まれた『氷遠』
村の外れの、沢の傍に智樹は立っていた。何かを見つめている、ような後ろ姿だった。夕日に染まった、清らかな水音。そして、その沢の縁に女性が一人、立っていた。
膝までを水に浸けて。ショートカットの髪が夕日に橙色に光って。背中をこちらに向けて。女性は智樹に気づいたようだった。ゆっくりと振り返った。
——結衣。
私の口の中でその名前が形になった。夕日が結衣の肌の、わずかに透けた表面を通り抜けていた。彼女の頬の、皮膚の下の血管も、骨の輪郭も、見えなかった。代わりに夕日の光が彼女の体を貫いて、向こう側の沢の小石を橙色に照らしていた。
結衣の髪の毛先からは、ぽつ、ぽつと透明な水滴が落ちていた。落ちた水滴は沢の表面に小さな同心円を作った。そして、結衣の頬には二つの質感が共存していた。右の頬は濡れて光っていた。左の頬は夕日の中で乾いて見えた。
その境界線が彼女の顎の下を走っていた。
——きれい。
私はそう思ってしまった。
七年前に水に取られて、もう人ではなくなった親友。皮膚が透けて、向こうの小石が見え、髪から水が滴り、顔の半分が乾き、半分が濡れた、人体ですらない異形。それを見た瞬間、私の胸に最初に込み上げてきたのは恐怖でも、悲しみでも、なかった。
ただ、美しい、という、ため息のような感嘆だった。夕日を透かす結衣の体はまるで薄く磨いた硝子細工のようだった。乾いた頬と濡れた頬の、境界の線が彫刻のように繊細だった。
——いつか、私も。
そんな思いが、ほんの一瞬、胸をかすめた。あんなふうに透き通って、美しくなれるのなら。そう思いかけた自分に私はまだ気づかなかった。
——ああ、結衣はこんなふうになったんだ。
そう思った、次の瞬間。背筋が凍った。
——いま、私は何を思った?
親友の、変わり果てた姿を見て、見惚れた。「救わなきゃ」でも、「逃げなきゃ」でも、「かわいそう」でもなく、ただうっとりと。ふつうの人間なら、悲鳴を上げる姿だ。怪物だ、化け物だと目を背ける姿だ。それに私は心を奪われた。
——もう、私の目は村の目になっている。
水に取られることを「優しさ」と呼び、人が水に還る姿に見入ってしまう、あの目に。いつから。瓶の水を飲んだ時から。井戸の水を飲んだ時から。少しずつ、私の感覚はすり替えられて、もう何を美しいと感じるかという、いちばん奥のところまで村に書き換えられていた。
恐怖は外から来るものだと思っていた。沢にいる、結衣の方から。違った。恐怖は私の内側にあった。異形を前にうっとりとする、この、私自身の目の中に。
智樹は結衣を知らない。けれど、結衣の笑顔を見て、足が動かなくなったようだった。彼はわずかにためらいながら、結衣に近づいた。結衣が何か言った。智樹がそれに答えたらしい。その時、結衣が笑った。肩を小さく震わせて。声を押し殺すように。
——その笑い方。
私の胸を刃物が刺し貫いた。それは結衣の笑い方だった。可笑しい時、彼女がいつもしていた、あの、しゃがれた、低い笑い方。エレベーターの中で編集会議の隅で二人で入った定食屋で、何度も、何度も見た、あの仕草。
水になって、皮膚が透けて、人ではなくなった、その体の、いちばん奥にまだ結衣がいた。私の知っている、私の親友の、結衣が。あの笑い方を忘れずに。
——結衣。本当に結衣なんだね。
その瞬間、私はようやく泣きたくなった。さっき、その姿を「美しい」と思った時には、出てこなかった涙がいま込み上げてきた。美しい異形を見ても動かなかった私の心がたった一つの、人間だった頃の笑い方に砕けた。
——私はこの子を悼むことすら、しなかった。
七年間。結衣が消えてから私はその死を忘れていた。村に来るまで名前すら思い出せなかった。「美しい」と感嘆する余裕は、あったのに、「ごめんね」の一言を、いままで一度も口にしていなかった。
結衣の髪の毛先からは、ぽつ、ぽつと透明な水滴が落ちていた。落ちた水滴は沢の表面に小さな同心円を作った。
涙が込み上げたのも、つかのま。その水滴を目で追ううちに私の胸はまたあの静かな感嘆に戻っていった。——きれいだ、と。悲しみよりも先にまたその思いが来てしまう。それすらも、私には美しく見えた。——その事実が何よりも恐ろしかった。
二人は言葉を交わしていた。何を話しているのか、私には聞こえなかった。ただ、結衣が智樹に手を伸ばした。智樹も、手を伸ばしかけた。私はその場で足が止まった。息を止めて、見ていた。智樹の指先が結衣の指先に触れる寸前——
結衣の指が智樹の手首をすうっと絡め取った。水でできた指が智樹の肌にぬるりと巻きついた。智樹はその瞬間まで自分の意志で手を伸ばしているつもりだったのだろう。けれど、いま明らかに引かれていた。彼の上半身が沢の水面の方へ傾いた。
私は走った。
「智樹!」
声を上げた。智樹が私の声ではっと振り返った。その瞬間、結衣がにっこりと微笑んだ。それからゆっくりと自分の体を後ろへ傾けた。沢の水の中へ。水でできた指は智樹の手首からぬるりとほどけた。水面に波紋が広がった。
結衣の体はもうそこにはなかった。智樹はしばらく、宙に手を伸ばしたまま動かなかった。それからふらりと後ろへよろけた。私は駆け寄った。智樹の右手首を両手で握った。そこに傷ができていた。
長さ、二センチほどの、細い、すり傷。けれど、ふつうのすり傷では、なかった。血と水が境界線を保ったまま、絡み合い、傷の中に留まっていた。そして、その傷の形が——文字をなしていた。
『氷遠』。
二文字が智樹の手首の内側に染めるように刻まれていた。血の赤と水の透明がひとつも混ざらずに、それぞれの線を保ったまま、二文字を形作っていた。私はその文字から目を逸らせなかった。
健一さんの、最後の手紙の中の、あの誤字。「永遠」が、「氷遠」になっていた。そして今、智樹の手首に同じ二文字が。
「美咲」
智樹の声は寝起きのようにぼんやりとしていた。
「いま、誰か、ここにいた、よな」
「ううん」と、私は優しく答えた。
「あなただけ、だよ」
「これ、何の傷だろう」
智樹は自分の手首を見下ろした。けれど、彼の目には文字の形は見えていないようだった。
「あれ、いつ、こんなとこ、擦ったかな」
「気にしなくて、いいよ」と、私は答えた。
「あとで絆創膏、貼ろう」
私は彼の手首を自分の手で覆い隠した。彼にその文字を見せたくなかった。智樹は頷いた。けれど、その目はまだ沢の水面を見つめていた。私は首にかけていた祖母の鈴に、無意識に手を伸ばしかけた。
——鈴はもう使えない。
トンネルで消耗した。私にはもう智樹を結衣から守る手段がない。私は彼の手を握った。冷たい手だった。
——結衣。
私の心の中でもう一度その名前が響いた。私の親友が私の智樹に触れようとした。そして、もう一度触れる。次は夢ではない形で。
——智樹はもう、半分行ってる。
それでも、涙は出なかった。胸の底が冷たく、据わっていくだけだった。




