表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/81

第78話 「来年も来よう」と笑う人

智樹が温泉から上がってきた。


「いやあ、いい湯だった」と、彼は笑顔で言った。


「お前、入った?」


「私は夜に入る」


「そっか。じゃあ、夕飯までちょっと村、散歩しないか。お前のお祖母様の家のあたり、見たい」


「いいよ」


私と智樹は村の通りをゆっくりと歩いた。


夕方の、傾いた光が家々の屋根を橙色に染めていた。村人たちがそれぞれの家の前で、夕食の支度をしているらしく、煮物の匂いがところどころで漂っていた。智樹は興味深そうに村の建築を見ていた。


「ここの家、全部、屋根が低いんだな」


「ええ」


「軒先の、これ、何? 縄に何か結んであるけど」


「お守り、らしい」


「ふうん。雰囲気、あるな」


私たちは川沿いの道に出た。智樹はしばらく、沢の流れを見つめた。


「川、きれいだな」


「そうだね」


「水音、いろんな方向から聞こえるな」


「うん」


「なんか、村全体が生きてるみたいだ」


そう言って、智樹はふと足を止めた。沢の流れを見つめる彼の横顔から、さっきまでの笑みが消えていた。


「美咲」


「うん?」


「変なこと、言っていいか」


「なに?」


「俺さ、さっきからちょっと落ち着かないんだ。この村、すごくいいんだけど……なんか、誰かにずっと見られてるような気がしてさ。気のせいだと思うんだけど」


私の心臓がひとつ、大きく跳ねた。


——智樹は勘づいている。


ここで「うん、変だよね」と一言、言えばいい。「私も、おかしいと思ってた。だからいま二人でここを出よう」と。バス停まで歩いて二十分。最終のバスには、まだ間に合う。それだけで、智樹は助かる。それだけで——。


「美咲」と、智樹が私の顔を覗き込んだ。


「もしさ、お前も何か感じてるなら、今日無理にここにいなくても、いいんだぞ。なんなら、いまから二人で東京に帰ったって」


智樹の手が私の手をそっと引いた。バス停の方へ。逃げ道の方へ。


私はその手を——握り返さなかった。


「考えすぎだよ」


自分の声が驚くほど優しく響いた。


「みんな、智樹に会えて嬉しいだけ。だからつい見ちゃうの。お客さんが珍しいから」


「……そっか。そうだよな」


智樹の手から力が抜けた。バス停の方へ引いていた手がまた私の手に戻ってきた。逃げ道が閉じた。


——私は智樹を助けたかった。


そう、自分に言い聞かせた。智樹を不安にさせたくない。怖がらせたくない。だから安心させたのだ。これは優しさだ。智樹のための。


その時の私はまだ気づいていなかった。いま自分が智樹の最後の逃げ道にいちばん優しい顔をして、そっと蓋をしたことに。


私は智樹の手を握った。


「智樹」


「ん?」


「ありがとう。来てくれて」


「お礼を言うことじゃないよ。当然」


智樹は私の手を握り返した。


しばらく、二人で川沿いを歩いた。


「美咲」


「なに?」


「お前がここを気に入ってる気持ち、わかる気がする」


「そう?」


「東京と全然違うだろ。空気も、音も、人も」


「ええ」


「結婚したら、年に何回か、ここに来るのも、いいかもしれないな」


智樹は無邪気な笑顔だった。私はその笑顔をしばらく見つめた。


「うん。来よう」


——私たちは来ない。


そう、わかっていた。胸の底が冷たくなった。それでも、私の口は勝手に「来よう」と、もう一度繰り返していた。智樹は嬉しそうに頷いた。


「お前のお祖母様の家、見せてもらえる?」


「もちろん」


私たちは祖母の家に向かった。家の前で智樹はしばらく立ち止まり、平屋の、木造の建物を見上げた。


「いい家だな」


「ええ」


「お祖母様、ここで夏休み、待ってくれてたんだろ。お前のこと」


「そう。毎年」


家の前の、小さな庭に祖母が植えていた紫陽花が咲き始めていた。淡い水色の、花。智樹はその花をしばらく見つめた。


「来年も、咲くかな」


「たぶん」


「来年、見に来ようか」


私は頷いた。


——来年、智樹はもう、ここに来られない。


そのことを私はもう一度、自分に言い聞かせた。夕陽が紫陽花の上に橙色の光を落としていた。智樹の頬にも、同じ光が当たっていた。私は智樹の顔をしばらく見つめていた。覚えておきたかった。生きている、智樹の顔を。


智樹は私の視線に気づいた。少し、首を傾げて笑った。それから自然に私の額に軽く口づけした。出発前夜に東京のマンションでもらった口づけと同じ優しさだった。


「夕飯、里穂さんの家、だっけ」


「ええ」


「先、行ってる? お前、お祖母様に線香、上げたいんだろ」


「すぐ、追いつくから」


「了解。じゃあ、先、行く」


智樹はひとりで村の中央の方へ戻っていった。私は祖母の家に入り、仏壇の前に座った。線香に火を点けた。煙がゆっくりと立ち昇った。目を閉じた。祖母に心の中で明日のことを告げた。線香が燃え尽きるまで五分ほどだった、と思う。


立ち上がった時、胸の中に妙なざわつきがあった。


——智樹が行くべき方向にいない。


里穂の家は村の中央。けれど、私の中のある感覚が、智樹は村の外れの川の方へ向かっていた、と告げていた。私は急ぎ足で祖母の家を出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ