第74話 里穂の懺悔
昼を過ぎていた。あと少しで智樹が来る。私は祖母の家で落ち着かないまま、何度も時計を見ていた。玄関の引き戸が静かに開いた。
「美咲さん」
里穂の声、だった。
「いますか?」
「うん」
私は玄関の方に向かった。里穂が立っていた。昼の光の中、彼女の表情はいつになく硬かった。
「ごめんなさい、お迎えの前に」
「ううん、いいよ。入って」
里穂を家の中に招き入れた。囲炉裏の傍に座らせた。お茶を淹れた。里穂は両手で湯呑みを包んだ。
しばらく、何も言わなかった。
「美咲さん」
「うん?」
「ひとつだけ、お話、してもいいですか」
「うん」
里穂は湯呑みの中の、お茶の表面を見つめた。
「結衣さんのことです」
私の胸がとくん、と跳ねた。
「七年前の、夏のことです。結衣さんがひとりで村を訪ねてくださっていた、その頃のこと」
「うん」
「私は結衣さんと何度も、ふたりでお茶を飲みました。お山の頂上にも、ふたりで登りました。結衣さんは私の、姉のように優しい人でした」
里穂の声は低かった。けれど、震えてはいなかった。
「結衣さんは最後の登山の前夜、村にいらっしゃいました。最後、とご本人はわかっていなかった、と思います。ただ、いつもよりも嬉しそうに村のことを話していらっしゃいました」
「結衣は何か言っていた?」
「美咲さんのことをたくさん」
里穂は口元だけで微笑んだ。
「『美咲は、私の、唯一の、家族みたいな人なの』『美咲がいなかったら、私、東京で、孤独で、死んでいたと思う』『美咲を、いつか、結婚式に呼びたいの』」
「結衣——」
「結衣さんはご自身がご家族との関係が複雑だったんですよね」
「うん。両親と絶縁してた」
「うん。だから美咲さんが結衣さんの、唯一の家族でした」
「うん」
私の頬に涙が流れた。
「私は結衣さんに最後まで何も言えませんでした」と、里穂は続けた。
「直接的な警告はできないという、村の掟。私はそれを破ろうとしてできなかった」
「掟を破ったら、どうなるの」
「破った者はその晩のうちに井戸に呼ばれます」
「そう」
「私は結衣さんを救うために自分の命を捨てる覚悟がありませんでした」
里穂の声が初めて震えた。
「私は自分の臆病さを結衣さんの命と引き換えにしたんです」
私は彼女の手を握った。
「里穂ちゃん」
「うん?」
「あなたの、せいじゃないよ」
里穂はしばらく、私の手を握り返した。それからゆっくりと首を横に振った。
「私のせいでも、あるんです、美咲さん」
「うん」
「だからこれから智樹さんをお迎えする時、私、できるだけ温かくお迎えします。私の、せめてもの、お詫びとして」
「うん」
里穂は湯呑みを置いた。立ち上がった。
「お迎え、頑張りましょうね」
「うん」
里穂は玄関で振り返った。
「美咲さん」
「うん?」
「結衣さんも、きっと見守ってます」
里穂は昼下がりの道を自分の家へ戻っていった。私はしばらく、玄関に立っていた。それから自分の頬を指で拭った。その涙はもう塩辛い、ふつうの涙では、なかった。
——もうすぐ。
智樹は昼過ぎに来る。私が自分の口で招いた。私が自分の手で地図を送り、バスの時刻を調べ、「招の日に来てほしい」と言った。私が塞いだ退路の、その先に智樹は何も知らずに笑顔でやってくる。あと数時間。
数時間だけ待てば、智樹が来る。そして、明日の朝、私は智樹を——。その先を私は考えないようにした。
けれど、井戸の方角から低い、地鳴りのような水音が続いていた。村全体が息を潜めているようだった。山が村が水脈が智樹の到着を待ち望んでいた。私もその一部になって、待っていた。
——いちばん、恐ろしいのは。
私は気づいた。
——私がその時を待ち遠しいと感じ始めていることだった。
その時、手の中の携帯電話がふいに震えた。圏外のはずの、この村で。画面に智樹の名前が光っていた。一通の、メッセージ。
『もう電車に乗ったよ。早く着きすぎるかもだけど、どうしても、お前の顔、早く見たくてさ。昼過ぎには着く。待っててな』
私はその文面を何度も読んだ。
「待っててな」。
——待っている。井戸が。村が。私が。
私は震える指でたった一言、返した。
『うん。待ってる』
それが智樹をこの世から呼び出す、最後の引き金だと知りながら。




