第70話 最後の電波
里穂が自分の家に帰った後、私は祖母の家に戻った。仏壇に線香を上げた。祖母の遺影が満ち足りた笑みを湛えていた。私はリュックの中から桐の箱を取り出した。蓋を開けるとガラスの瓶があった。
東京の家からここまで運んできた、祖母の「お守りの水」。中の水を私はもう飲んでしまっていた。瓶はほぼ空だった。底にわずかに最後の一滴ほどの水が揺れているだけだった。
栓に巻かれた、和紙。祖母の字。「美咲へ。山に入る時は必ず一口、飲みなさい。お祖母ちゃんが守ってあげるから」。
——お祖母ちゃんが守る。
その意味を今、私は知っていた。
「私の代わりに水神様が守る」、という意味。
私は瓶を両手で握った。
「お祖母ちゃん」
私は瓶に向かって呼びかけた。
「お祖母ちゃん、行きます」
瓶を仏壇の、祖母の遺影の傍らに置いた。空の瓶を捧げるように。
そう口にした途端、声が、震えた。
——行きます。本当に?
覚悟の言葉は口から出たそばからばらばらと崩れていった。智樹を井戸へ。私の手で。そんなことできるはずがない。できて、いいはずがない。
——招の日。四日目。それまでに決めなさい。
美樹さんの声が耳の奥でよみがえった。今日がその四日目だった。今日、智樹を招かなければ。今日、この電話をかけずに山を下り、バスに乗れば。私は半分の体のまま、東京に帰れる。智樹と生きられる。誰も、死なない。
その道はまだ開いていた。あと数時間だけ。
私は立ち上がった。
リュックを引き寄せ、着替えを詰め、財布と携帯と東京の鍵を放り込んだ。仏壇の瓶には、もう手を伸ばさなかった。あれは置いていく。村に置いていく。私は帰る。智樹のいる、東京に。
戸を引いた。朝の湿った風が頬を撫でた。山道を下れば、昼前のバスに間に合う。
一歩、踏み出した。
——その足が止まった。
戸口の敷居の上で。まるで見えない水が足首を掴んだように。けれど、掴んだのは水ではなかった。
智樹の右手首に刻まれた、あの二文字。「氷遠」。結衣が彼の肌に残していった印。あれが瞼の裏にくっきりと浮かんだ。
——私が東京に帰っても。
声が胸の底からせり上がってきた。
——智樹はもう結衣に印をつけられている。私がどこへ逃げても、いつか結衣の手が智樹を連れていく。私の智樹を。あの子が。
リュックの肩紐を握る手に力がこもった。
逃げれば、智樹は生きる。それはわかっていた。けれど、生きた智樹はいつか結衣のものになる。私の知らない場所で結衣があのしゃがれた低い声で智樹に笑いかける。七年前、里穂にそうしたように。私だけのものだったはずの誰かを、またあの子に奪われる。
——いやだ。
その一語が私の全身をつらぬいた。
踏み出したはずの足が自分の意志で後ろへ引いた。一歩。敷居をまたいで家の中へ。私は戸を閉めた。
リュックを床に下ろした。肩紐から指を一本ずつ、剥がすように離した。
その時、私は、はっきりと知ってしまった。
私は智樹を助けるために残るのではない。智樹を誰にも——結衣にも、水神にも——渡さないために残るのだ。いちばん優しい顔をして、いちばん深い場所へ私の手でしまい込むために。
それは村に命じられたからではなかった。誰かに強いられたからでもなかった。私が、そうしたいのだ。私の、いちばん奥の、冷たいところが。
私は自分の中のその獣を初めてまっすぐに見た。そして、目を逸らさなかった。逸らす理由がもうなかった。
それから私は長いあいだ座り込んでいた。リュックを下ろした部屋で膝を抱えて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。決めてしまえば、あとは、その時を待つだけだった。
障子に映る光がしだいに高く、白くなっていった。朝が、昼へと近づいていた。
私は携帯電話を手に取った。
電波が届くかどうか、わからなかった。村に来てからずっと私の携帯は圏外と表示されていた。けれど、今日画面の左上にわずかに一本の電波が立っていた。まるでこの一本のために今日まで圏外だった、かのように。




