第68話 いちばん優しい引き止め方
どれくらいの時間、泣いていたか、わからなかった。気がつくと私は里穂の腕の中にいた。里穂が私をしっかりと抱きしめていた。彼女の肩に私の頭が預けられていた。里穂の体は村人たちの合唱のリズムとわずかにずれていた。
ほかの村人たちが低く高く合わせて嗚咽している中で、里穂だけは自分の中の別のリズムで泣いていた。合唱の中に混ざらない、ひとりだけの、独白の涙。私は頬を彼女の肩に押し付けたまま、目を閉じていた。
「これでいい、美咲さん」と、里穂が囁いた。
「これでいい」
それからもう一度ほんの少し低い声で彼女は囁いた。
「ごめんね」
そして、さらにもう一段、低く。
「結衣ちゃんの時も、私、何もできなかった」
——結衣ちゃん。
里穂は結衣をちゃん付けで呼んだ。私はその言葉を聞いた。けれど、すぐに聞かなかったことにした。里穂はもう、その言葉をもう一度繰り返さなかった。代わりに私の頭を両手で撫でた。それは里穂がこれまで私に見せたことのない、強さの撫で方だった。
——里穂は結衣のことを私より、はっきり覚えていたのだ。
七年前、結衣がひとりで村を訪ねた、その日々。里穂は結衣の隣にいた。掟のせいで止められなかった。そして、結衣が最後の登山に向かう前夜、里穂は結衣に笑顔で「気をつけて」と、しか言えなかった。
その意味の重みがいま里穂の手の中の、強さの本当の理由だった。私は彼女の声を聞きながら、また涙を流した。
——これでいい。
里穂の言葉は私の中で繰り返された。これでいい。これでいい。私がここに迎え入れられることがこれでいい。私が智樹をここに呼ぶことがこれでいい。私が新しい水見になることがこれでいい。
——なぜ、私はその流れを抵抗していないのだろう。
その問いが頭の中で形になりかけた。私は里穂の腕の中でほとんど無意識に呟いていた。
「里穂さん。私、やっぱり……東京に帰った方がいいのかな」
声に出してから自分でも驚いた。それは美樹さんが示してくれた、細い道。智樹を招く前なら、まだ間に合う、あの道。私の中の、いちばん人間に近い部分が最後にすがろうとした声だった。里穂の撫でる手が止まった。ほんの、一瞬。
それから里穂は私の顔を覗き込んだ。笑っていた。いつもの、柔らかい、温かい笑顔。涙で濡れた頬のまま、彼女は優しく微笑んでいた。
「東京に何があるんですか?」
里穂の声はどこまでも穏やかだった。私を責める響きは欠片もなかった。心から不思議に思って、尋ねているような声。
「東京で、美咲さんを待っている人は智樹さんでしょう? その智樹さんはもう結衣ちゃんに印をつけられている。あなたが帰っても、智樹さんはいずれ、こちらに来る。だったら——」
里穂は私の頬を両手で包んだ。
「ここで待っていた方がいいと思いませんか。智樹さんをいちばん優しい形で迎えられるのは美咲さんだけ、なんですから」
私は何も言えなかった。
「それとも」と、里穂は小首を傾げた。微笑んだまま。
「智樹さんを結衣ちゃんに渡しても、いいんですか?」
私はただ、首を横に振ることも、頷くこともできずに彼女の顔を見ていた。里穂は私の頬を包んだ手にほんの少しだけ力を込めた。指先が私の頬の、水になりかけた皮膚にしっとりと馴染んだ。それからくすりと笑った。
「それにね」
一拍、置いて。
「帰れる、なんて、最初からなかったんですよ」
私の心臓が止まった。
「美樹さんは『招く前なら、間に合う』って、言ったでしょう。あれ、嘘じゃないんです。本当に間に合うんです。理屈の上では。——でもね、ここまで来て、村の水を飲んで井戸の声を聞いて、お祖母様の手帳を読んで結衣ちゃんを思い出して、智樹さんに印がついた。そこまで来てしまった人で本当に帰った人を私、一人も知らないんです」
里穂の微笑みは変わらなかった。けれど、その目は笑っていなかった。
「みんな、『帰れる』って聞くと、安心するんです。帰れる道があるって思えると人は落ち着いて、その場にいられる。それでいられるうちに、招の日が来る。——美樹さんは本気であなたを逃がそうとしてあの話をしたんだと思います。あの人は優しいから。でもね、美咲さん。この村では優しさがいちばん人を引き止めるんですよ。誰も、騙していない。誰も、悪くない。それなのに、誰も帰れない」
——逃げ道はなかった。
いや。逃げ道はあった。けれど、その逃げ道こそが私をここに縛りつける、いちばん優しい罠だった。「いつでも帰れる」という安心が私から、いま帰る、という焦りを奪っていた。
里穂は私を脅していなかった。声を荒げもしなかった。ただ、善意だけで、心からの優しさだけで、私の前の、最後の一本道が最初から地面に描かれた絵に過ぎなかったことを、教えてくれた。
東京に帰れば、智樹は結衣に取られる。残れば、智樹は私が殺す。どちらを選んでも、智樹は死ぬ。そして、その「選べる」という感覚さえ、村が私に見せていた優しい夢だった。そして、それは正しかった。一点の嘘もなかった。
私はもう、帰る理由を失った。いや——帰る理由を失ったことに、ようやく気づかされた。
「……うん」と、私は頷いた。
「そうだね。ここで待つ」
里穂は満面の笑みでもう一度私を抱きしめた。
「よかった」
心の底から嬉しそうな声だった。それがいちばん怖かった。霧散したはずの問いの答えが、いまはっきりと出ていた。私は抵抗していなかったのではない。抵抗する道が優しさによって、一つずつ塞がれていただけだった。
代わりに里穂の腕の温かさだけが残った。ハツの手が私の背中を優しく撫でた。源蔵が私の頭の上に骨ばった、けれど温かい手を置いた。私たちは家族だった。それを私はもう否定しなかった。
夕方、私たちはそれぞれの提灯を灯して、山を降りた。提灯の灯が登山道にぽつぽつとともり、長い列を作っていた。私は村人たちの列の中でひとり、もう自分が村人たちと別の存在ではないことを知っていた。




