第67話 水見だけが知ること
集団の涙がゆっくりと静まっていった。最初に声を上げていた年配の女たちから、嗚咽が低くなっていった。次に男たちが。最後に子供たちが。風がまた吹いた。山の上の方から降りてきていた水音も、徐々に遠のいていった。
私の隣に座っていた白髪の老女がふと私の方を向いた。八十代の半ば、だろうか。皺の深い、けれど瞳の澄んだ女性だった。私は彼女と初めて目を合わせた。
「美咲ちゃん」
老女は低い声で私の名前を呼んだ。
「はい」
「私の夫はね、昭和の終わりにここに還られたの」
私は息を呑んだ。
「夫の名前は富田正吉。当時、四十二歳でした。私は当時、三十八歳」
「正吉さん——」
「あなたのお祖母様は母からまだ水見の役目を引き継いだばかりの頃」
老女の声は平らだった。怒りも、悲しみも、ない。ただ、報告のような声。
「私はあの年の招の日に夫を招きました。電話でね。今と変わらない習わしでした」
「夫は、来てくれたんですか」
「うん。彼はいつも、優しい人だった。私が頼むことは、ぜんぶ聞いてくれた」
「正吉さんは村の人ですか」
「いいえ。私の夫は東京の、信用金庫の職員でした。私が東京で働いていた時に出会って、結婚して、村に戻ってきた」
「夫は、村のこと知らなかったんですか」
「うん。知らなかった。私は結婚してからね、夫に一度も村の本当のことを話したことがなかった。怖くて」
老女はしばらく、井戸の方向を見つめた。
「五日目の朝、夫は私の手を握って、井戸に向かいました。最後まで笑っていた。私が押した。夫は最後の瞬間まで私の名前を呼んでいた」
「正吉、さん」
「ええ。今でも、声が聞こえます。井戸の中からときどき」
老女は自分の手を私の手の上に重ねた。骨ばっていた。けれど、温かい。
「美咲ちゃん」
「はい」
「夫を招くこと後悔したことは、ありませんよ」
「後悔——なかった」
「ええ。なぜなら、夫は今、私の中にいるからです。私が井戸の水を飲むたびに。私が雨の音を聞くたびに。夫の温もりがわかります」
老女はふっと微笑んだ。
「あなたも、明日智樹さんを招かれるのね」
「はい」
「智樹さんが来られたら、ぜひ、温かく迎えてあげて。村のみんなも、温かく迎えますから」
「はい」
「智樹さんはこれからずっとあなたの傍にいる人になりますから」
私は頷いた。
——傍にいる人。
そう、老女は言った。押し込むのではなく、傍に迎え入れる。その言い方が私の中に自然に染み込んだ。老女はもう一度、私の手を握った。それからゆっくりと立ち上がり、ほかの村人たちの中に戻っていった。私はしばらく、彼女の後ろ姿を見送った。
——あの方が今の私の、数十年後の姿、なのだろうか。
その問いを私はもう怖がらなかった。




