第61話 智樹からのメール
家に戻った時、私の携帯電話はずっと布団の脇に放置されていた。
「静の日」の間、私は一度も触れなかった。
充電がわずかに残っていた。画面を開くと智樹からの長いメッセージが入っていた。写真も、添付されていた。智樹の、東京のマンションのベランダから撮ったらしい夕焼け。橙色と紫色が混じった、夏の終わりの空。
『美咲、お祭り中だろうから、返事はいつでもいいよ』
『今日、不動産屋に行ってきた。来年の引っ越し、物件いくつか絞った』
『一つ、すごくいいやつ、見つけた。西新宿のはずれ、八階建ての五階、東向き、リビング十二畳、寝室二つ、書斎一つ、ベランダ広め、ペット可。家賃、今より三万高いけど、二人で出し合えば、何とかなるかな』
『写真、送っとく。お前の好きそうな感じだと思う』
物件の間取り図と、室内の写真が続いていた。明るい、フローリングのリビング。陽が差し込む、東向きの窓。広めのベランダには、何も置かれていないが、植物を並べたら、きっと似合うだろう。私はその写真をしばらく見つめた。
そして、その光景の中に自分と智樹が座っているのを想像しようとした。
朝の、リビング。窓から夏の朝日が差し込む。私がコーヒーを淹れている。智樹が新聞をめくっている。
——想像、できなかった。
私の頭の中の、私の輪郭がわずかにぼやけていた。コーヒーカップを握る指先が透けて見えた。その輪郭はもう東京の、明るいリビングには収まらなかった。私は写真を閉じた。
『智樹、写真、ありがとう。すごく、いいところだね』
返信を打った。短く。
『お祭り、明日が顕の日、明後日が招の日。その招の日に、来てくれるんだよね』
『楽しみにしてる』
送信、と画面に表示された。充電が限界に近づいていた。私は充電器につないだ。けれど、画面はもう開かなかった。それから自分の指先を見下ろした。物件の写真のリビングを想像していた時に、わずかに透けて見えた指先。今、見ても、まだぼやけていた。
——気づかないうちに、私の輪郭は薄くなっていた。
私は布団の中に潜った。枕の中でわずかにぽちゃ、と水音がした。枕の中身はそばがらだった、はずだった。




