第59話 智樹の声が思い出せない
二時間が過ぎた頃、私はふと自分が何かを忘れていることに気づいた。東京。私の住んでいる場所。私は目を閉じて、思い出そうとした。オフィス。編集部。校正の机。窓の外の夜景。けれど、その記憶がぼんやりと霧の中に霞んでいた。
エレベーターの音。コピー機の音。同僚たちの話し声。黒田の足音。
——それらの音が思い出せなかった。
代わりに井戸の水音だけが私の中に満ちていた。私はもう一度、目を閉じた。今度は人の顔を思い出そうとした。母の顔。父の顔。同僚たちの顔。どれも、輪郭がぼんやりとしていた。けれど、まだ辛うじて見える。智樹の顔。
——智樹。
優しい、穏やかな顔。少し癖のある髪。眼鏡をかけた目元。智樹の顔は思い出せた。けれど、智樹の声が思い出せなかった。
朝、私が出発する時に智樹は何と言ったのだったか。「気をつけてね」。その四文字は覚えている。けれど、その四文字を智樹の声で再生できなかった。智樹の声は何だか、ずっと遠くに行ってしまったような気がした。
私はわずかに寂しさを感じた。しかし、その寂しさはすぐに指先から抜けていった。握っていたはずのものがいつのまにか掌からこぼれ落ちて、もうどこにあるかもわからなくなる。そんな、奇妙に穏やかな喪失だった。
ハツが私の方を見ていた。柔らかい、慈愛に満ちた目で。ハツは何も言わなかった。ただ、私の手を両手で包んだ。骨と皮ばかりの手なのに、火にあぶったように温かかった。その手の重みになぜか私は深く安堵した。




