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第58話 井戸の前
里穂が私を連れていったのは村の中心の井戸の前だった。私が初めて村の水を一口飲んだ、あの井戸。井戸の周りに村人全員がすでに座っていた。皆、無言で井戸を囲んでいた。子供たちも、おとなしく、母親の隣に座っていた。
里穂が私を空いている場所に座らせた。私の左隣にハツが。右隣に里穂が。そして、皆で井戸の方を見つめた。何も、起こらなかった。ただ、井戸の底から水音が聞こえてくる、それだけだった。ぽちゃ……ぽちゃ……ぽちゃ……
時々、深い水脈の、わずかな、ゴゴゴという、低い唸り。私は最初の三十分ほど、何も感じなかった。退屈、と言うほどでもないが、ただ座って、水音を聞いているだけの時間だった。けれど、一時間を過ぎた頃から私の中で何かがゆっくりと変わり始めた。
水音の中にリズムが浮かび上がってきたのだ。ぽちゃ、ぽちゃ、ぽちゃ。最初は不規則と思っていた水音が、実はある一定のリズムで繰り返されていた。そして、そのリズムは私の呼吸と合っていた。私が息を吸う時、水音が止まる。
私が息を吐く時、水音が戻ってくる。
——水と私の呼吸が同期し始めている。
怖くはなかった。むしろ、深いところで安らいでいた。誰かの腕の中に戻ったような。




