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第51話 まだ間に合う、という道

私はしばらく、その場に座り込んでいた。水面はもうただの水だった。私の顔だけが映っていた。ふと息をついた。地下空間の空気は湿っていた。それでいて、息を吸うと奇妙に楽になった。


——私はもう、戻りたくない。


そう、自分の中で声がした。ここにいたい。お祖母ちゃんと結衣と健一さんと香織さんと四十八人と一緒に。そんな声を聞きながら、私はふと首筋の痣に手を当てた。熱を持っていた。


朝、家を出た時の、何倍も熱くなっていた。私は立ち上がった。階段を登り始めた。ゆっくりと一段ずつ。今度は上へ。地上に戻る理由は私の中でひとつだけあった。


——智樹。


その名前がまだ私の中で声を持っていた。智樹に会いたかった。東京の、智樹に。私の中の結衣を思い出させた、もう一人の大切な人。私が忘れたくない人。トンネルの中を戻り始めた。一時間以上、降りていたはずなのに、上りはあっけないほど短かった。


入り口の光が見えた瞬間、私の胸がふっと緩んだ。外に出ると夕方の山の空気が頬を撫でた。里穂と美樹が二人並んで入り口の脇に座っていた。里穂が立ち上がり、私に駆け寄った。そして、強く抱きしめた。


「お帰り、なさい、美咲さん」


里穂の声がかすかに震えていた。普段の彼女の声とは、少しだけ違う響き。けれど、彼女はすぐにいつもの柔らかい笑顔に戻った。私が彼女の表情に首を傾げる前に。


「お疲れ、でしたね」


「うん」


帰り道、里穂は村人に呼ばれて、先に行ってしまった。私と美樹だけが夕暮れの山道をゆっくりと下りていた。


しばらく、二人とも、何も言わなかった。それから美樹が足を止めた。前を向いたまま、低い声で言った。


「美咲ちゃん。一つだけ、言っておきたいことがあるの」


「はい」


「あんたはもう瓶の水を飲んでしまった。村の井戸の水も、飲んだ。体も、変わり始めている。それはもう戻らない」


「うん」


「でもね」と、美樹は続けた。


「『招の日』に、誰かを招く前なら——まだ、間に合うかもしれない」


私は美樹の背中を見た。


「間に合う、って」


「水見が、本当に水見になるのは、自分の手で最も愛する者を井戸に送った、その時から。それまではまだただの半分。半分なら、村を出られる。東京に帰って、もう二度とここの水を飲まなければ、体の変化はそこで止まる、と言われている」


「止まる」


「ええ。元には戻らない。痣も、肌も、そのまま。でも、それ以上は進まない。あんたは東京で半分だけ水の体のまま、ふつうに生きて、ふつうに年を取って、ふつうに死ねる」


私の胸の奥がとくん、と鳴った。


「美樹さんはなぜ、それを私に」


美樹は振り返った。皺の奥の目が潤んでいた。


「私は健ちゃんを待つためにここに残った。それが私の選んだこと。後悔はしていない。でも、あんたは違う。あんたには東京に智樹さんがいる。生きている人が待ってる。だから——招く前に帰りなさい。誰も招かなければ、誰も死なない。あんた一人が半分のまま生きれば、それで済む」


私は立ち尽くしていた。


——帰れる。


智樹を呼ばなければ。招かなければ。いま、村を出れば。私は半分だけ水の体のまま東京に戻り、智樹と結婚して、あの東向きのリビングでコーヒーを淹れて——。


「考えて、ね」と、美樹は言った。


「招の日は四日目。それまでに決めなさい。それを過ぎたら、もう村はあんたを放さない」


美樹はそれきり、何も言わなかった。私たちは黙って、山を下りた。


その夜、私は布団の中でずっと天井を見つめていた。


——帰る。智樹を呼ばずに帰る。


そう、何度も、自分に言い聞かせた。里穂の腕の中で私はふと思った。


——もう、戻る場所はここしかないのかもしれない。


その夜、智樹からまた電話があった。


「美咲、明日そっち、行こうと思って」


私の頭が咄嗟に動いた。


「明日はダメ」


「え?」


「明日から村のお祭りで私、忙しいの」


「お祭り?」


智樹の声が少し引っかかった。


「うん。水守祭、っていう、村の。五日間、続くから」


「ふうん。なら、お祭り終わってから行くよ」


——お祭りが終わってから。


その一言に私はすがりつきたかった。お祭りが終わるまで智樹が来なければ。私が招かなければ。四日目をただやり過ごせば。そうすれば、まだ引き返せる。美樹さんの言った細い道がまだ私の前に残っている。


「ううん」


けれど、私の口はその道を自分で塞いだ。


「お祭りの、四日目に来てほしい。智樹も、お祭りに参加してほしいの」


言ってしまってから私は自分の声にぞっとした。


「四日目って、いつ?」


「四日後の、夕方まで。最終日の前の日なの」


「わかった。じゃあ、その日出るよ」


「うん。バスの時間を調べておくね」


「美咲」


「うん?」


「お祭り、楽しそうだな」


智樹の声に私を安心させようとする響きがあった。


「うん。楽しいお祭りだよ」と、私は答えた。


電話を切った。リュックの中の、もうほとんど空になった祖母の瓶がかすかに軽く感じられた。

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