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第49話 井戸の底から見つめる顔

階段はゆっくりと下へ下へ続いていた。岩肌はしっとりと濡れていた。歩くたびに足元からぴしゃと小さな水音がした。下るにつれて、空気が重く、湿っていった。そして、奇妙な反響が始まった。


私が息をする音、足音、すべての音が何重にもこだまして返ってくる。けれど、その反響の中には、私が出していない、別の音も混じっていた。子守唄、のような。わらべ歌、のような。私は止まりかけた。けれど、戻る理由がもうなかった。


五十段ほど降りたところで——突然、雨が降り始めた。岩盤の天井からではなかった。階段の周囲の、空間そのものから生暖かい水が激しく降り注いだ。


私の頭の上に肩に背中に容赦なく降り注いだ。あっという間にシャツが髪が肌がぐっしょりと濡れた。


——そして、音がしなかった。


豪雨のような、激しい雨。私の体にぱしゃぱしゃと打ち付けるはずの雨粒。なのに、完全な、無音だった。私がぱしゃ、とコンクリートを踏む音は聞こえた。私の、自分の呼吸の音も、聞こえた。けれど、雨そのものの音はまったくない。


雨は私の服の中まで入ってきていた。胸の谷間、お腹、太腿の内側、足首、すべてが生暖かい水で満ちた。そして、雨が語りかけてきた。声はなかった。けれど、肌に直接、染み込んでくる、声のようなもの。


『美咲』


『おかえり』


『もう、抗わなくて、いい』


『すべて、ここに、溶かしなさい』


——私の魂を溶かそうとする声。


私の足が止まった。膝が震えた。抗えない。抗える理由がもうない。その時、私の指が首にかけていた祖母の鈴を握っていた。


——お祖母ちゃん。


私はその鈴を引きちぎるように外した。そして、自分の頭の上で激しく振った。ちりん、ちりん、ちりん——澄んだ音が無音の雨の中に、響き渡った。その瞬間、雨がぴたり、と止んだ。声も、止んだ。


私の体はまだずぶ濡れだったけれど、降り注いでいた生暖かい水はもうない。ただ、ぴしゃ、ぴしゃと自分の足元の水溜まりの音だけが戻ってきていた。私は肩で息をしていた。そして、手のひらの中の鈴を見下ろした。


——温度が消えていた。


子供の頃から祖母の遺品としていつもわずかに温かかった鈴が、今はただの冷たい金属の塊になっていた。ちりんともう一度振ってみた。音は出た。けれど、その音はもう何にも応えなかった。


——力が消えた。


一回、使った。それで終わりだった。祖母の手帳にこう書かれているのを私は東京で読んだことがあった。「鈴は、使うたびに力を消耗する。三代に一度の、緊急の時にしか使ってはならない」。私はその鈴を首に戻した。


——次に水に襲われたら、もう私には抗うものがない。


百段ほど降りたところで、階段は終わった。私は広い地下空間に出ていた。懐中電灯でぐるりと照らした。


天井は思ったよりも高かった。十メートル近くあるかもしれない。空間自体は円形の、ドーム状。岩盤に無数の細かい亀裂があり、そこから水がしっとりと滴っていた。ぽたん、ぽたん、ぽたん。無数の水滴の音が重なって、空間を満たしていた。


ふと上を見上げた。ドームの天井の、いちばん高いところに円い穴が開いていた。その穴の向こうにぼんやりと青い空が見えた。


——いや、空ではない。


水の、底だった。水越しに空を見ているのだ。そして、その円い穴の、ちょうど真下に私は立っていた。


——水見の井戸の、底。


里穂が私に井戸の水を勧めてくれた、あの井戸。私は見上げながら、井戸の縁から誰かが覗き込んでくれることを期待した。けれど、上には誰もいなかった。

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