表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/77

第47話 見て見ぬふりをした夏

その瞬間、何かが私の頭の中で開いた。霧が晴れるように。結衣。私はその名前をはっきりと口に出して言った。


「結衣」


頭の中で霧散しなかった。代わりに別の何かが戻ってきた。結衣の、笑い声。しゃがれた、低い笑い方。彼女は可笑しい時、いつも肩をわずかに震わせ、声を押し殺すように笑った。その笑い方がいま、私の耳の奥で生々しく響いた。


それから彼女のシャンプーの匂い。柑橘系の、爽やかな香り。一緒にエレベーターに乗った時、すぐに彼女だと気づいた、その匂い。それから彼女が不安な時、いつも私の左肘の内側を指で軽くつつく癖。それから——


私の身体の、ぜんぶの皮膚が結衣の存在を覚えていた。


——七年前、私は二十四歳だった。


結衣と知り合ったのは出版社に入って二年目の春。彼女は別の出版社の編集者だった。仕事の打ち合わせで何度か顔を合わせて、すぐに意気投合した。結衣は登山が好きだった。「東京から近くて、いい山、教えてあげる」と、彼女が私を誘った。御霊山。


最初は軽い気持ちで行った。結衣と二人で山頂を目指した。途中で水守村を通った。村のお婆さんが私たちに井戸の水を勧めてくれた。


「おいしいですね」と、結衣は笑顔で言った。


私はその時、なぜか飲まなかった。祖母の鈴をリュックに入れていた。それが私を止めた気がした。結衣は井戸の傍で若い村の女性と話していた。


——里穂。


私の中でその光景がいま、はっきりと輪郭を結んだ。当時、二十代前半だった里穂が結衣と笑顔で話していた。


「東京からいらしたんですか」


「ええ、登山で」


「ぜひ、村にも、またお立ち寄りください」。結衣はその日、里穂と連絡先を交換していた。


その時の結衣の笑い声を私は覚えている。あのしゃがれた、低い笑い方。肩を震わせて、声を押し殺すように笑う、私だけが知っているはずのあれを、結衣は里穂の前でもしていた。会ったばかりの村の娘にもう気を許したように。


私は少し離れた場所でそれを見ていた。喉の奥に小さな石が引っかかったような感じがした。


——なにあの二人。さっき会ったばかりなのに。


そう思った自分にすぐ蓋をした。結衣に友達ができて、何がいけないの。私は心の中で自分にそう言い聞かせた。けれど、結衣が私の隣に戻ってきて「里穂ちゃん、いい人だね」と言った時、私は「うん」と答えながら、結衣の手をいつもより少し強く握っていた。


——なぜ、これも忘れていたのだろう。


それから私たちは何度も御霊山に登った。週末ごとに。やがて結衣は御霊山に夢中になった。「ここの空気、特別なの」と。二度目の登山だった。沢の傍で休憩をとった時のこと。結衣は沢の縁にしゃがみ込んで、流れる水をじっと見つめていた。


しばらくして、私は気づいた。


——結衣は瞬きをしていなかった。


何分間も。彼女の目は水面を見つめたまま、動かなかった。


「結衣」と、私は声をかけた。


結衣はわずかに振り返った。少しだけ、慌てたように目を瞬かせた。


「あ、ごめん。きれいで見とれちゃってた」


その時、彼女の頬の肌がいつもと違っていた。普段の健康的な肌色ではなく、白く、しっとりと濡れたような光り方。


私はその時、それを深くは考えなかった。「山の風で肌がしっとりするんだろうな」と思った。帰りの電車の中で結衣は何度も自分の腕の内側を指で撫でていた。「ねえ美咲、ここの水、特別だよ」と、彼女は何度も繰り返した。


私は笑って頷いた。結衣の楽しそうな顔を見て、私も嬉しかった。


——あの時、もう結衣は半分、向こうに行きかけていたのだろう。


私はその異変をただの「山の楽しさ」だと誤認した。そして、それを訂正する機会を失った。


——いや。


本当に誤認だったのだろうか。いま、こうして思い出してみると私はあの頃、結衣の変化に気づいていなかったわけではなかった気がする。気づいていて、見ないことにした。


結衣には私のほかに親しい人がいなかった。家族とも絶縁していた。彼女の世界には、私だけがいた。それが私には心地よかった。誰かにこれほど必要とされたことは、なかったから。


だから結衣が御霊山に夢中になり始めた時、私はほんの少し面白くなかったのだ。私の知らない場所で、私の知らない人と結衣が笑っている。「里穂ちゃんとお茶飲んできた」と報告されるたび、私は笑顔で頷きながら、胸の奥がかすかにざらついた。


結衣を誰かに取られたくなかった。


——だから私は結衣が「向こう」に近づいていくのを、止めなかったのかもしれない。山の異変よりも、自分の小さな独占欲のほうに気を取られていた。結衣が私だけのものでいてくれるなら、彼女がどこへ向かおうとそれでよかった。


そう気づいた時、私は自分の中の冷たい部分を初めてまっすぐ見た。結衣は私に黙って、何度かひとりで水守村を訪ねていたらしかった。「里穂ちゃんとお茶飲んできた」と、嬉しそうに報告された日もあった。最後の登山は夏の終わりだった。


結衣は頂上の手前で立ち止まり、空を見上げた。それから私の顔を見て、笑った。


「ありがとう、美咲。一緒に来てくれて」


その日、結衣は私と別れて、一人でもう少し先まで行く、と言った。


「先に降りていて。私、ちょっと見たい場所があるから」


私は彼女を待った。麓まで降りて、車の中で何時間も待った。結衣は戻って来なかった。


警察に捜索を依頼した。けれど、結衣の遺体は見つからなかった。私は結衣の家族にも会えなかった。そして、いつの間にか——私は結衣を忘れていた。七年間、ずっと忘れていた。七年間、誰にも、彼女のことを話さなかった。


なぜ忘れたのか、わからない。けれど、いま戻ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ