第46話 名簿に紛れた親友の名
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。香織の姿が消えた場所を見つめていた。
——彼女は幸せそうだった。
最後の最後、井戸に向かう瞬間、香織は安らかに笑っていた。それが私を震えさせた。
恐怖からの解放——いや、違う。彼女は最初から恐怖を感じていなかったのだ。村に温かく迎えられ、祖父の足跡を辿り、井戸に向かう。それは彼女にとって、家に帰る、ということだった。私はふと自分のリュックを見下ろした。
中に空になりかけた祖母の瓶が入っている。私はもう、それを飲んだ。
——「家に帰る」、という感覚を私も感じ始めているのだろうか。
その時、私はもう一度、四十八人の名簿に戻った。何かを確認したかった。何かを思い出しかけていた。名簿の、最後の方に私はまだ目を通していなかった。四十五。四十六。四十七。そして、四十八番目。
そこまでは、すべて男の名だった。
けれど、その四十八番目の行のさらに下に。罫線からはみ出すようにもう一行が書き添えられていた。
『結衣 二十六歳 友人・美咲』
——結衣。
——美咲。
私はその文字を何度も見つめた。一九五七年の現場にいるはずのない名。女が一人。補足には「友人・美咲」と書かれている。私の祖母の筆跡で。
背筋が冷たくなった。
結衣が消えたのは七年前。平成二十九年。あの夏、結衣は二十六歳だった。一九五七年の現場に結衣がいられるはずがない。生まれてすらいなかった。
なのに、ここにいる。四十八人の名簿の、いちばん下に。
私は震える指で名簿の紙を明かりに透かした。四十八人の男たちの名は長い年月で茶色く褪せていた。けれど結衣の一行だけ、その墨はわずかに新しかった。
校正者の目がそれを見逃さなかった。
——後から書き足されたのだ。
四十八人の名簿が編まれた、そのずっと後に。祖母がこの一行を加えた。昭和の死者の列のいちばん最後に、まだ生まれてもいない娘の名を。
私はついさっき、健一さんの相談相手のことで気づいたばかりだった。この村で語られる過去は語る者の願いの形に少しずつ削られる、と。祖母の手帳も。美樹さんの記憶も。
——けれど、削るだけではなかった。
書き足すこともできたのだ。
井戸の底では、昭和も平成も、同じ一つの水になって混ざり合っている。そこには、もう時間の順序などないのだろう。祖母はそれを知っていた。だからいつか結衣が来ることも、その結衣を追って私が来ることも、知っていた。
——お祖母ちゃんはいつから知っていたの。
四十八人を見送った、二十歳の夏から。それとも、私が生まれるより前からこの名簿の最後の行を空けて、待っていたのか。
私は紙束をそっと元の場所に戻した。
戻しながら、ふといちばん下の一枚がめくれた。四十八人の名簿の、その下にもう一枚、紙が隠れていた。
結衣の名が書き添えられた紙の、さらに下。まだ何も書かれていない、白い紙が一枚。
——次にここへ書き添えられる名のための。
その紙がいつか、誰の名で埋まるのか。私はもう、わかっていた。わかっていて、それを見なかったことにした。




