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第45話 三十六年後の同じ場所
ノートをリュックにしまった。その時、トンネルの空気が変わった。水気が増した。霧がコンクリートの床からゆっくりと立ち上り始めた。ふと視界の隅に誰かがいた。
二十代の、若い女性。長い髪を後ろで一つに束ねている。登山服姿。明るい笑顔でトンネルの入り口の方を振り返っている。その姿は半透明だった。霧の中に溶けている。
——山田香織。
直感で私は知った。彼女が私の方を見た。けれど、目は私を捉えていなかった。彼女は彼女自身の時間の中にいた。一九九三年の六月。彼女の最後の日。香織は誰かに手を差し伸べた。
「お祖父ちゃん」と、その口が動いた。声は聞こえなかった。
それから彼女は嬉しそうに笑った。心の底から安らかに笑った。私は息を止めて、その光景を見ていた。香織の隣にもう一人人影が現れた。中年の男性。作業着姿。彼が香織の手を握った。二人はトンネルの奥へゆっくりと歩き始めた。
その姿が霧に溶けていく。
「香織」
私は思わず声を出した。二人の影が一瞬、止まった。香織が振り返ったように見えた。けれど、もうその姿は消えかかっていた。私は足を踏み出した。彼女に何かを伝えたかった。でも、何を伝えるべきか、わからなかった。足を踏み出した瞬間、霧が晴れた。
トンネルの通路には、誰もいなかった。




