第44話 山田香織の手記
さらに五十メートルほど進んだところに、もう一つの待避所があった。そこには机も、写真も、なかった。代わりにコンクリートの床に革表紙のノートが一冊置かれていた。しゃがんで手に取った。
ノートはしっとりと濡れていた。けれど、表紙に書かれた文字は、はっきり読めた。
『山田香織 調査日記 平成五年六月』
私は震える指でページをめくった。
『六月十日。御霊山に到着。水守村は村の人たちが想像以上に温かく迎えてくれた。みんな、私のことを知っていたみたい。「待ってたよ」と、お婆さんたちが口々に言った。怖くなる、けれど嬉しい。お祖父ちゃんの友達も、たくさんいた』
『六月十一日。村の井戸の水を飲んだ。おいしかった。今まで飲んだ水の中で、一番おいしかった。なんだか、もう東京に戻りたくない気分』
『六月十二日。美智子さんという優しい方が、家に来てくれた。お祖父ちゃんのことを覚えていてくれた。たくさんお話してくれた。「あなたの曾祖母——お祖父様のお母様——も、この村の家系だった」と教えてくれた。私の血の中に、ここの血が流れているの?』
『六月十三日。美智子さんが私を、お祖父ちゃんが亡くなったトンネルへ連れて行ってくれた。怖くなかった。むしろ、家に帰ってきたような感じがした』
『六月十四日。今日、水守祭の準備が始まった。みんな、楽しそう』
『六月十五日。明日が最後の日。みんなが井戸へ招いてくれる。お祖父ちゃんに、会えるかもしれない』
最後のページにただ一文だけ。
『六月十六日。お祖母ちゃんが、最後まで止めようとしてくれた。でも、もう私は行きたい。お祖父ちゃんが、呼んでいる』
私はノートを閉じた。
山田香織は自分から井戸に向かったのだ。誰かに強制されたのではない。村に温かく迎えられ、血の繋がりを知らされ、祖父に呼ばれていると信じて、自分の足で。
——私とまったく同じだ。
これは三十一年前の他人の日記ではない。私のこれからの日記だ。日付を今年に置き換えれば、そのまま、私の行動の予告になる。村の水を飲み、血を知らされ、トンネルへ来て、そして井戸へ。私はもう、その何日目かまで来てしまっている。
それがわかっても、引き返そうとは思わなかった。そのことが何よりも恐ろしかった。




