第39話 私たちは苦しんではいない
待避所の壁にもたれた。リュックから先ほどしまった革表紙のノートをもう一度取り出した。
読むべきではない、という声が、どこかでした。これを読めば、彼らがどうやって水に取られたのか、その手順を知ってしまう。知れば、自分が同じ道のどこにいるのかもわかってしまう。
それでも私は開いた。知りたかった。彼らがどんなふうに消えたのか。そして、私がこれからどうなるのか。村の誰も教えてくれないことを、この記録だけが教えてくれる。懐中電灯の光をページに当てた。
『六月二日
御霊山到着。麓のホテルで一泊。明朝、登山口へ。地質的に興味深い土地である。中部地方では珍しく、火山活動の痕跡と深い地下水脈が複雑に絡み合っている。予算と日程の関係で調査は一週間。同行は平岡と若林』
『六月三日
第三工区トンネル付近の岩盤をサンプリング。トンネル自体は、半世紀以上前の放棄されたダム建設の遺構。コンクリートの劣化は想定よりも少ない。湿気の影響が不思議と少ない。
近くの沢の水を採取。pH七・二、軟水、極めて高い純度。これほど純度の高い天然水は、私の調査経験では珍しい』
『六月四日
平岡と若林が沢の水を興奮しながら話している。彼らはすでに、何度も口に入れたらしい。私はまだ口にしていない。職業的な用心』
『六月五日
ついに私も口にした。なるほど、彼らの言うことは本当だった。不思議な満足感がある。喉が乾かなくなる。水筒を、村の井戸の水で満たした』ここから、筆跡が変わっていた。
四日目までは几帳面な、理系の字だった。罫線からはみ出さない。一字ずつ、独立している。けれど、五日目の項から字が少しずつ、右へ流れ始めていた。インクが滲んでいた。乾いてから滲んだのではない。書いたそばから、紙が湿って墨を吸ったような滲み方。
私はページをめくる指が、湿っているのに気づいた。私の指先の湿気が紙に移っているのか。それとも、紙のほうがもとから湿っていたのか。もう、わからなかった。
『六月六日
朝、平岡が起きてこなかった。寝袋を開けると、彼はいなかった。寝袋の中に湿気だけが残っていた。若林と、捜索を、開始。トンネルの中の待避所まで来た。ここで平岡の衣服が見つかった。本人は見つからなかった。
慌ててはいない。むしろ、これは想定の範囲内という気がしている。なぜ、想定していた、のだろう。私にはわからない』この一文を読んだ時、私の喉の奥でごぼ、と、小さな泡が弾けた。
——わかる、と私は思った。
なぜ高橋が慌てなかったのか。なぜ「想定の範囲内」だと感じたのか。私にももうわかる。それがいちばん恐ろしかった。
『六月七日
若林も、いなくなった。
朝、起きると彼の寝袋に湿気だけが残っていた。平岡と同じ』字がもう線として、つながっていなかった。点の連なり。墨が水に溶けて、紙の繊維に沿って、毛細管のようににじり広がっていた。
『六月七日 夕方
コンパスが回転している。GPSの座標が信用できない。時計の針が逆向きに動く瞬間があった。私の、左手の、指先が透けて見える。怖くはない』
最後の項はもう判読が難しかった。墨ではなく、水で書いたような淡い跡。光に透かさないと文字が浮かび上がらない。
『六月八日
夜明け前。最後の、ページに書いておく。私は自分がどこに行くのかわからない。けれど、向こうで平岡と若林に会えそうな気がしている。これを誰かが読んでくれたら伝えてほしい。私たちは苦しんではいない。高橋 修一』
署名の「修一」の、最後の一画だけが、紙の端まで長く尾を引いて消えていた。まるで、書いている途中で手そのものが水になってしまったように。私はノートを閉じた。そして、しばらく息を止めていた。
『苦しんではいない』。
そう、書いてあった。
——美樹さんも、同じことを言っていた。
健ちゃんも、他の方々も、もう苦しんではいない。その言葉が今、私の中で初めて本当の重みを持った。私はノートをリュックに戻した。それから、衣服の傍にもう一度手を合わせた。
「ありがとうございました」
声に出さずに、そう呟いた。
里穂は言っていた。村の人間は、第三工区の奥までは決して入らない、と。掟だと。けれど、私はもう引き返す気がなかった。この奥に、村が私に見せたくないものがある。健ちゃんが、四十八人が、高橋たちが、どこへ消えたのか。その答えがいちばん奥にある。
——自分の目で、確かめる。
誰かに語られるのを待つのは、もうやめだ。私は懐中電灯を握り直し、闇のいちばん深い方へ足を踏み出した。




