第37話 壁の内側に残る、爪の痕
「私はここまで」と、美樹が言った。
「美咲ちゃん、本当に入る?」
「はい」
「中で見るものは、たくさんあると思う。でも、何を見ても怖がらないでいいよ。健ちゃんも、他の方々ももう苦しんではいないから」
「美樹さんは、入ったことがあるんですか」
「一度だけ。健ちゃんが亡くなった、その年のお盆に」
美樹はそれ以上は言わなかった。私はリュックを背負い直し、懐中電灯を手に取った。里穂がコンクリートの入り口の前で立ち止まった。
「美咲さん。一つだけ、お願いがあります」
里穂が私の手をしっかりと握った。
「中で、誰かに声をかけられても答えないでください。背中を向けないでください。それから、——絶対に、水を飲まないでください」
里穂は優しい笑顔で、そう言った。
「行ってらっしゃい。私たち、ここで待っています」
私は頷いた。懐中電灯のスイッチを入れ、トンネルの中に足を踏み入れた。最初の数歩はただの暗いコンクリートの通路だった。けれど、五メートルほど進んだ時、私の懐中電灯の光が、壁の異常を捉えた。コンクリートの表面に、無数の小さな傷があった。
最初は自然な経年劣化のひびと思った。けれど、近づいて見ると、それはひびではなかった。
——爪痕だった。
人間の指の爪が、コンクリートを、必死に引っ掻いた痕。それも、ひとつや二つではない。壁の表面が無数の爪痕で覆われていた。ある場所には爪が折れて、まだコンクリートの隙間に刺さったまま残っていた。




