第35話 叶わない未来の話
夜遅く、祖母の家にひとり戻った。布団を敷いた。電気を消した。枕元の携帯電話が震えた。智樹からの二度目の着信だった。私はためらいながら応答ボタンを押した。
「美咲」と智樹の声は低かった。
「さっきは、ごめん」
「ううん」
「俺、急に行くなんて言って悪かった。お前、疲れてるんだろうに」
「ううん。私こそ変な言い方しちゃった」
「いいよ。気にしてない」
智樹はしばらく黙った。それから、いつもの穏やかな声で続けた。
「美咲、もう布団入ったか?」
「うん」
「今、何考えてる?」
「智樹のこと」
「ふうん」
智樹が電話の向こうで笑った。柔らかい笑い声。
「俺もさ、美咲のこと考えてた」
「なに?」
「ばあちゃんの家の片付けが終わったら、二人で住む場所ちゃんと決めようかって」
私は目を閉じた。
——住む場所。
「いまの俺のマンション、二人で住むにはちょっと狭いだろ」
「そうだね」
「来年あたり、もう少し広いとこに引っ越して結婚もちゃんと考えていいかなって。お前さえよかったら」
私の頬に、ゆっくりと涙が流れた。透明な無臭の涙。
「考えよう」
「リビング、広いとこがいいよな。ベランダで植物育てたい」
「ええ」
「あと、書斎いるか? お前、家でも校正やる時あるだろ」
「書斎、ほしいかも」
「料理は、週末は一緒に作ろう」
「そうしよう」
「子供は、まあ、もう少し先でいいかな」
「そうだね」
智樹の声はいつもの、優しい智樹の声だった。私は布団の中で彼の声を聞いていた。彼が語る未来を、一つずつ、心の中に思い描いた。そして、思い描いたそばから、その一つずつが、手の中ですうっとほどけていくのを感じた。
それは霧散していくのではなく、ただ私の手の届かない場所に置かれていくような感覚だった。
「美咲?」
「うん」
「聞いてる?」
「聞いてるよ。ぜんぶ」
「うん。よかった」
智樹はまた笑った。
「明日早いから、もう寝るよ」
「うん」
「お祭り、楽しみだな」
「うん」
「美咲」
「うん?」
「愛してる」
私はしばらく、その三文字を聞いていた。
「おやすみ、智樹」
電話が切れた。私はしばらく携帯電話を握ったまま、布団の中で動けなかった。頬には色のない雫が伝ったままだった。
「智樹、ごめんね」
声にも出さずに、私は心の中でそう呟いた。




