第34話 二度と乾かない手のひら
帰り際、玄関で私は振り返って美樹に聞いた。
「美樹さんは、もう六十七年ここでお暮らしになって」
「そうね」
「健一さんを、待ち続けて」
「待ってると言ったら、ちょっと嘘になるかもしれない」と美樹は笑った。
「もう、健ちゃんが戻ってくることはないって知ってるから」
「では、なぜ」
「健ちゃんに近いところにいたいだけ」
美樹は玄関の柱に優しく手を当てた。
「健ちゃんは、この御霊山の水脈の中にいる。今もね。だから私もこの山の麓にいたいの。それだけ」
私は頷いた。何も言えなかった。美樹は私の手を両手で握った。骨ばった、けれど温かい手。
「美咲ちゃん」
「はい」
「お祖母様の最後の優しさを受け取ってあげてね。水神様は優しいよ。あなたのことも家族のように迎えてくださる」
「美樹さん」
「うん?」
「あなたは、お祖母ちゃんと同じ気持ちですか」
美樹の顔が一瞬、強張った。それからすぐにまた柔らかい微笑みに戻った。
「私はね、美咲ちゃん。最初の数十年は健ちゃんが戻らなかったことを怒っていたよ。水神様を、恨んでもいたの」
「今は」
「今はねもうわかったの。怒ったり、恨んだりしても何も変わらない。それなら、健ちゃんと一緒に水神様の優しさの中に行きたいって思うようになった」
——優しさの中。
そう、美樹は言った。水神に取られることを彼女はそう呼んだ。私はその言葉を聞きながら、ふと自分の首筋に手を当てた。東京を発つ朝、鏡で見つけた水滴の形の青い痣。そこは今、わずかに熱を持っていた。
そして——熱を持っているはずなのに、痣の表面に薄く湿り気があった。熱を持つはずの場所が湿っている。私は手のひらを確かめるように、もう一度、首筋に当てた。指先が肌の上をすうっと滑った。
汗ではなかった。何か、もっと透明で無臭の湿り気。その湿気は首筋だけではなかった。手の甲も。耳の後ろも。両腕の内側もいつの間にかしっとりと湿っていた。私はまだそれをただの汗だと思おうとした。
夕方、村への帰り道で私の携帯電話が鳴った。智樹からの着信だった。
「美咲? 大丈夫? メッセージ返事ないから、心配で」
智樹の声がいつもより近く感じられた。近く感じられるのは、その声が私の中でもう遠ざかり始めていたからだった。
「ごめん。電波、悪くて」と私は嘘をついた。電波は今、はっきりと立っていた。
「整理、進んでる?」
「うん。もう少しで終わるよ」
「美咲」
「うん?」
「お前、声、ちょっと変だぞ」
私は何も言えなかった。
「いつ戻る?」
「あと、しばらくいるね。お祖母ちゃんの遺品、思ったよりたくさんあって」
「そっか。無理するなよ」
「うん」
「美咲」
「うん」
「俺、今度の土日そっち行こうか。顔だけでも見たくてさ」
私は咄嗟に答えた。
「ううん、来ないで」
その声に自分でも驚いた。低い命令するような声だった。智樹も驚いたようだった。電話の向こうでしばらく沈黙があった。
「……わかった」と、智樹は優しく答えた。
「無理するなって、それだけ伝えたかった」
電話を切った。私はしばらくその場で動けなかった。
——なぜ、私は智樹に「来ないで」と言ったのだろう。
その答えはまだ私にはわからなかった。




