第33話 お祖母ちゃんが守ってあげる
私は立ち上がれなかった。健一の手紙がまだ私の膝の上にあった。「氷遠に愛している」という一文。健一は自分が冷たい場所へ行くことを、無意識に知っていた——美樹はそう信じていた。そして、私の祖母も、何かを知っていた。知っていて、私に瓶を残した。
「美樹さん」と、私はようやく口を開いた。「祖母が、私に瓶を残してくれていました。『山に入る時は、必ず一口、飲みなさい』って」
美樹の表情がふと静まった。柔らかな笑みは、変わらなかった。けれど、その奥で、何かがゆっくりと開かれていくのが、見えた。
「ああ」と、美樹は頷いた。
「やっぱり、美智子さんは最後にそれを残したのね」
「ご存知だったんですか」
「私たちみんな、知ってたよ」
——私たちみんな、知ってた。
その一言が私の中で響いた。ハツも、源蔵も、里穂も、村の人、誰もが知っていた。私が祖母の瓶を持って、この村に来ることを。瓶を開けて、飲むことを。そして、それが何を意味するのかを。
「美咲ちゃん」と、美樹は優しく言った。
「お祖母様は、ね、最後の数年、ずっと悩んでおられた。あなたを、こちらに来させたくなかった。でも、来させないわけにもいかなかった。それが水見の家の宿命だから」
「宿命」
「うん。水見の血を引く者は、いつか必ず、水神様に呼ばれる。逃げ続けることは、できない。逃げれば、別の誰かが代わりに取られる。大平さんの時のように」
美樹の声は震えていなかった。長年、整理してきた言葉だった。
「美智子さんはね、迷い抜いた末に選んだの。あなたを、自分の手で、ちゃんと迎え入れることを。それがせめて自分にできる、最後の、お祖母ちゃんとしての優しさだと思って」
「迎え入れる——」
「あの瓶は、水神様への紹介状なの。『この子は、私の孫です。どうか、優しくしてあげてください』っていう、お祖母ちゃんからのお願い」
私の手が湯呑みを握りしめた。冷たい湯呑みだった。お茶はもうぬるくなっていた。
「だから、お祖母ちゃんが守る、と書いてあるのは——」
「うん」美樹は頷いた。
「『私の代わりに、水神様が守る』、という意味」
私はしばらく、その言葉を、口の中で転がしていた。
転がしながら、無意識に、首筋に手を当てていた。東京を発つ朝に見つけた、水滴の形の青い痣。そこが、ぬくい。話を聞いている間に、熱が少しずつ上がっている気がした。指を離すと、その指の腹に、薄く湿りがついた。




