第32話 祖母が見送ったもの
美樹はしばらく沈黙していた。それから立ち上がり奥の部屋に消えた。戻ってきた時、彼女は古い桐の小箱を両手で抱えていた。
「これ」と、美樹は私に見せた。
「美智子さんから、私にいただいた、お手紙」
蓋を開けた。中には何十通もの手紙が丁寧に束ねられていた。古いものは変色して、新しいものはまだ白い。
「半世紀以上の手紙が、ここに入っています」と、美樹は説明した。
「美智子さんは、お亡くなりになるその年まで、毎年、必ず私にお手紙をくださった」
私は震える指で、最も古いものを手に取った。封筒はもう紙が薄くなりかけていた。中の便箋を慎重に取り出した。
便箋を持つ指先が、ひやりと冷たかった。自分の指なのに紙より冷たい。いつから、こんなに冷えていたのだろう。私は便箋を汚さないよう、指の腹ではなく、爪の先で端を支えて、文字を追った。
『美樹さんへ
健ちゃんがお山に還られて、今日で、四十九日でございます。四十九日の慰霊を村のみんなで行いました。私は座っていることができませんでした。健ちゃんに合わせる顔がありませんでした。
私があの日、もっと早く警告をするべきでした。私が止めるべきでした。美樹さん、私は生涯この罪を抱えて生きます。そして、私の代では誰も招かないように、致します。それが私のせめてもの抵抗、です。
返信はご無用です。ただ、私のお詫びをお受け取りください。相沢 美智子』
私の手が震えていた。
「次の手紙も読んでくださいね」と、美樹が優しく促した。
二通目。
『美樹さんへ
一周忌のご法要に参列できず申し訳ありませんでした。健ちゃんのお墓はお山の中腹に、ご家族が建てられたそうですね。私もひとり、こっそりと、行きました。お花をお供えしてきました。
健ちゃんが生きていたら、今ごろ東京であなたと家庭を築いていたでしょう。子供は何人生まれていたでしょう。私はお山の中で、その光景をずっと想像していました。美智子』
三通目、四通目、五通目。手紙は年に一通か二通、続いていた。
健一の七回忌、十三回忌、二十三回忌。それぞれに、美智子は参列できなかった。村人の目があり、表向きには罪を認められなかった。けれど、毎年、必ず手紙を送った。
——『私の代では、誰も、招かないように』。
その言葉が繰り返し出てきた。
『今年も、お山は静かでした。私の代ではまだ誰も招いておりません』
『美樹さん、私は母から引き継いだ役目を果たさないつもりです。生涯抵抗します』
『水神様も、もしかしたら、私の代を見送ってくださるかもしれません』
そして、平成五年の手紙。
『美樹さんへ
山田香織さんが、ご自分から井戸に向かわれました。私は止めようとしました。両手で、両腕で彼女にすがりつきました。けれど、香織さんは笑顔で、私を引き離して、井戸へ行かれました。
水神様は招かなくても、ご自分で、呼びに来てくださるのですね。私の抵抗は敗北しました。私の孫娘の美咲ちゃんを、絶対にこちらに来させたくないと、思っております。美智子』
私の頬に、涙が流れた。
——お祖母ちゃん。
最後の手紙は亡くなる、その春のものだった。
『美樹さんへ
私の役目はもうすぐ終わるようです。体が徐々に軽くなっています。美咲ちゃんのことだけが心残りです。私は彼女をここに来させないと、決めていました。けれど、最近、ふと思うのです。私の、力ではもう抗えないのではないか、と。
ならば、せめて、優しく、迎えていただけるよう、最後の準備を致します。美樹さん、長い間お手紙をお読みくださりありがとうございました。あちらで、健ちゃんと、お会いしたら私たち三人でお茶でも、飲みましょう。
私はもう、ここを卒業します。相沢 美智子』
私は最後の手紙を、しばらく抱きしめていた。美樹が私の肩に手を置いた。
「お祖母様はね、ご自分の中でずっと戦っておられた」
「うん」
「あなたを、なんとしても守ろうとしておられた。最後まで」
「うん」
「でも、最後は抗いきれなくて、せめて、優しく迎えてもらえるよう瓶を残された」
「うん」
私は何度も頷いた。涙だけが流れていた。




