第31話 大平太一郎
私はしばらく、何も言えなかった。健一の手紙を読み終えた私の手が、震えていた。「氷遠に愛している」——その一文が、今も目の中で揺らめいていた。
「美樹さん」と、私はようやく声を出した。「この、四十八人の事件——なぜ、誰も知らないんですか。検索しても、出てこない。新聞にも、ニュースにも」
「会社が、消したのよ」と、美樹は静かに言った。
「大平建設」
「大平、建設」
「創業者の、大平太一郎さん。あの人はもともと、この水守村の出身者だった」
私の中で、ぱちん、と、何かが繋がった。東京で読んだ、社史。創業者の出身地——「中部地方某県・水守村」。
「大平さんは、村の本家の、三男坊だった」と、美樹は語った。
「水守の家系の中でも、特別な家系の生まれの人。それで、若い頃、村を離れて、東京で建設会社を立ち上げた。戦後の復興景気で、大きくなって」
「特別な家系——というのは?」
「水見の家系よ」と、美樹は私の目を見つめた。「ちょうど、美智子さんの家と同じ。代々、水神様と近い関係にある家系」
私の胸が跳ねた。
「水見」という言葉がまた出てきた。祖母の手帳に書かれていた、あの言葉。
「大平さんはね、水見の家の、男だった。男の水見は稀。普通は女が継ぐ役目」
そこまで聞いて、私の中で、東京で読んだ社史の断片が、ひとりでに繋がっていった。大平太一郎は十八で村を出て、生涯一度も戻らなかった。冠婚葬祭も墓参も、何ひとつ。水を、器を光に透かして検めてからでないと口にしなかった——。
——逃げたんだ。
私は美樹の言葉を待たずに、口を開いていた。
「大平さんは、水見になるのが嫌だったんですね。だから村を捨てて、東京に逃げた。そして水を、ずっと恐れていた。いつ自分が呼ばれるか怯えながら、検めてからでないと飲めなかった」
美樹がゆっくりと顔を上げて、私を見た。その目に、わずかな驚きと、それから深い憐れみのようなものが浮かんだ。
「……よく、わかったね」
「社史に、書いてありました。本人は、几帳面な人だと思われていたみたいです。でも、あれは——」
恐怖の記録だ。そう言いかけて、私は口をつぐんだ。言葉にするのが怖かった。その怯えは、いま、私自身の中にも芽生え始めていたから。
「そう」と、美樹は静かに頷いた。
「あの人は、生涯、水に怯えて生きた。けれど、水神様は忘れない。逃げた者を、忘れたりはしない」
美樹はしばらく沈黙した。それから、続けた。
「大平さんは、考えたの。逃げ切るには水神様そのものを消すしかない、って。水脈をコンクリートで固めてしまえば、水神様も消えるんじゃないか、って。それが御霊山のダム計画」
「水神を消すために、ダムを」
「うん。けれど、計画が始まった瞬間、水神様は激怒したのよ。それで、健ちゃんたちが代わりに取られた。大平さんを取りに行く前の、警告みたいに、四十八人を、まず取った」
美樹の目に、初めて、涙が浮かんだ。
「健ちゃんは、大平さんの代わりに取られたの」




