第30話 誰も書き間違えていない誤字
美樹は立ち上がり、奥の部屋から、古い封筒を持ってきた。
「健ちゃんが、私に書いた、最後の手紙。あの夜、現場の事務所で書いて、私に届けるはずだったの。届けられなかったから、現場の事務所の机に置きっぱなしになっていた。後で、現場監督さんが、私に届けてくれた」
便箋は変色して、所々、染みになっていた。けれど、几帳面な文字が、はっきりと読み取れた。
『美樹へ
俺は明日、現場の責任者に、配置換えを願い出るつもりだ。
この山には何か、おかしなものがいる。みんな、水のことばかり話している。沢の水を「うまい、うまい」と言って、目がおかしくなっている。俺は飲んでいないから、まだまともだ。だがこのままだと、俺も、いつか、飲んでしまう気がする。
美樹、頼みがある。明日、もし俺が現場に行ったきり戻らなかったら、お父さんに伝えて、警察を呼んでほしい。大袈裟だと笑われるかもしれないが、お願いだ。それから、これは絶対に言いたかった。美樹、君を、氷遠に愛している。
工事が終わったら、必ず、東京に連れて帰る。約束する。健一』私はその一文で止まった。
——「氷遠に」。
「永遠」と書くはずの漢字。健一は確かに「氷」と書いていた。書き間違いには見えなかった。きっちりとした、丁寧な楷書。「氷」の三画目まで、しっかり書かれている。
その「氷」の字を指で追おうとして、私は手を止めた。便箋を持つ自分の手の甲に、ぽつ、と一滴、透明な雫が浮いていた。汗ではない。私の皮膚そのものから、にじみ出たものだった。あやうく、健一さんの文字の上に、落とすところだった。私はそっと手を引いて、雫を着物の袖で拭った。
「美樹さん」と、私は震える声で尋ねた。
「これ、書き間違い、ですよね?」
「私もね、最初はそう思ったよ」と、美樹は優しく微笑んだ。
「健ちゃん、本当に字が綺麗な人だったから、間違えるなんて考えられなくて。何度も読み返したの。何百回、何千回」
「でも、なぜ——」
「美咲ちゃん。健ちゃんはね、もしかしたら、知ってたんじゃないかと思うの。書いた瞬間、自分でも気づかずに、知ってしまったんじゃないかと」
「知るって、何を」
美樹はその手紙を、優しく、自分の胸に抱いた。
「自分が、これから、氷のように冷たい場所に、行くことを」




