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第2話 氷に変わった文字

「相沢、まだいたのか」


振り返ると、文芸編集部の副編集長、黒田が立っていた。五十代前半、いつも疲れた顔をしている男。今日は特に機嫌が悪そうだった。


「すみません、もう少しで終わります」


「締切は月曜だぞ。土日も出社するつもりか?」


「いえ、来週は少し休みを取らせていただきます。祖母の遺品整理で」


登山サークルの予定があった、とは言わなかった——いや、登山サークル?


一瞬、自分の頭の中で、何かが食い違った気がした。私は登山サークルには所属していない。なぜ、そんな言葉が浮かんだのだろう。


「とにかく、ミスは許されないからな」


黒田の声が、妙に遠くに聞こえた。まるで、水中から聞こえる声のように。ゴボゴボと泡立つような残響が、かすかに混じっている気がする。


「新人のくせに、もう二回も誤植を見逃してる」


胸が締め付けられた。二週間前のことを思い出す。私が校正した本——大学時代の恩師の文芸評論集——に、致命的な誤植があった。


「水」が「氷」になっていた箇所が、三ヶ所。


たったそれだけ。でも、文脈上では大きな違いだった。「水の表象」が「氷の表象」では、意味が全く変わってしまう。校正時のメモを見返すと、確かに「水」と書いてあった。なのに、印刷された本では「氷」になっていた。初校、再校のゲラには確かに「水」と印刷されていた。それが最終的な本では「氷」に——まるで、印刷の過程で文字自体が変質したかのように。


「君の卒論は『戦後文学における水の表象』だったんだろう? 水という字くらい、見逃すなよ」


黒田は皮肉を込めて言い、去っていった。その足音が遠ざかるにつれて、別の音が聞こえてきた。


かすかな、水の滴る音。


天井から——? いや、もっと近い。

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